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あの晩の思い出

 宮下部を含めた弁護士数人と女性秘書で、ビアガーデンに寄った帰り。筧二は相当、アルコールの影響で顔に赤みが差していた。普段はさほど、酒に弱い体質ではないのだが、前夜は遅くまで仕事をこなしていたせいだろう。疲れからか早めに酔いが回った。何をしゃべったかも覚えていない始末だ。

「安城先生、タクシーつかまえますんで。乗りましょう」

 退店後、筧二の具合を心配していた望夏と、別の秘書がビアガーデンの入ったデパート付近に残っていた。本来なら同じ路線の地下鉄で帰宅するはずだったメンバーだ。

 ランプの点灯しているタクシーが停まり、二人は筧二に乗るよう勧める。しかしなぜか筧二は「いや、いい」と言って固辞した。

「さぁ、私も同乗しますから。運転手さん、草永中央駅付近の……あれ、なんて公園の隣だっけ」

 望夏は筧二の居住地を思い出せないことに気づく。幹事の宮下部なら詳しく把握しているはずだったものの、二軒目に行ってしまい、即答できない。

 仕方なくタクシーはあきらめ、三人で電車に乗った。先に降りるもう一人の秘書が去る前に、望夏は筧二の財布を開き、運転免許証で住所を調べた。そして足元のやや危なっかしい彼と二人、連れ添って駅を出る。

「他の男性陣は全員、二次会に向かいましたね。安城先生も体調が万全なら、参加したかったでしょう」

「行かない。行きたくない」

「と、言いますと」

「何が宮下部の奴『粒揃いでおすすめのバーがあるから行こう』だ。女性に付きっ切りで給仕させてたのしめるものか。人を不当に扱ったり、下に見る態度が嫌いだ」

 その時、隣を歩いていた望夏が足を止めた。筧二が振り返ると、真っ暗な住宅地を背景に、目を丸くした彼女が立っていた。

「御蔭くん?」

「なんだか胸を打たれてしまって。男性にもホステスさん嫌いの人が、いるんだなぁと」

「女性の存在は尊い。御蔭くんだけでも理解してくれたなら、僕ぁ本望だ」

 若干呂律の回らない筧二は言い切り、ひと気のない路地を進む。


 筧二の住まいまで、残り数10m。ひぐ、と筧二がしゃっくりしたあと、望夏の小さな笑い声が零れる。

「でも本当、びっくりしました。安城先生は酔っていても素敵なお人柄なんですね。女性を下に見るべきじゃないなんて」

 すると、今度は筧二が歩みを止めた。つられて望夏も立ち止まる。

 今にも寝息を立てそうな表情の筧二と、どうしたのかとまばたきを繰り返す望夏。ごく近距離で、二人の視線が交わった。筧二の黒い革靴が一歩、踏み込んでくる。

「せんせ……?」

「何を急に、かわいらしいことを――いつだって君は、美しいと いうのに」

 流れるように、自然に、筧二は望夏の頬と肩をつかまえて、互いの顔を近づけた。

 軽く、でも確かに、唇と唇が重なった。ほんの数秒の出来事だ。まるで時間の経過すら慈しむかの如く、2人して言葉を失くしていた。

 ただし、沈黙が守られたのも筧二が顔を離すまでの間だった。

 徐々に正気に戻ったらしく、その後は赤面し、不明瞭な発語のオンパレード。あわてて自分の財布を探り、1,000円札を3枚、望夏に握らせた。

「ああの、えっと、困ります。このお金はどうしたら」

 タクシー代として使ってほしい。深夜まで付き合わせて悪かった。では。

 早口でまくし立て、筧二はずんずんと、家に突き進んでいった。「一人で大丈夫ですか?!」望夏が質問を飛ばすも、わずかに右手を挙げただけで、振り返ることはなかった。


 急な二日酔いにでも襲われたように、筧二は両手で頭を抱え込む。

「都合の悪い思い出が、次々よみがえってきた。色魔だろ、俺。完全に」

 いつだって君は美しいとか、なんとか。まさに前後不覚。言動が支離滅裂じゃないか。

 今、目の前にいる望夏は望夏で、生真面目に「そうだ、その夜お預かりしたタクシー代のおつり、お返しした方が」と口走る。「わずかなものだろう、もらっておいてくれ」。もう何一つ思い出したくなくて、うめく筧二。

「寛大な君が相手じゃなかったら、とっくに俺は、警察に捕まってるな」

「綺麗な思い出ですよ。先生の……筧二さんの意外な人柄がわかったし、今夜こうして、デートに来るきっかけにもなった。名前を呼び合う関係にだってなれた」

(そうやって明るく言って、不用意にほほ笑んだりするから)

 筧二の心を毎回たまらなくさせているのを、彼女は理解しているのだろうか? 確信犯? それとも、天然?


 どちらにしても。

(これからお互い、知っていけばいい)

 恋人として過ごす時間を、増やしてゆくのだから。


 うれしさから思わずにやけそうになり、筧二は照れ隠しに、口元の髭に手を当てた。

「聞いてもいいですか、筧二さん」

「ん。なんだ」

「髭は、ずっと同じくらいの長さですか? 何かきっかけがあって、伸ばし始めたんですか?」

「きっかけ……?」

 そう呼べるほどのことは、特に…… つぶやきながら、顎の毛先をいじる。

「大学で、弁護士を志すようになって、勉強漬けになった時期に……放置してたら、なんとなくこの長さがしっくりきて」

 以来、整える程度になったはずだ、と、あいまいな記憶を頼りに答えた。

「髭、ズボラっぽくて気になる?」

「いいえ! 渋いし、どちらかと言えば私は好きです!」

 好きです! もなかなかの破壊力だ。筧二は、むせる。

(心臓、もつかな?)

 うれしくて歯がゆい、望夏の笑顔あふれる、夢のような食事会になった。

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