望夏ははっとした顔つきになり、何度か瞬きを繰り返した。そして、息を呑む仕草を見せたあと、筧二に対してしっかりと頷いた。
了解の返事と見なし、筧二は1つ咳払いをする。
「僕……いや俺は見ての通り、特に女性の機微には不慣れな点が多い。かつ勢いまかせに始まった関係で、御蔭くんには不安もたくさん与えていると思う」
でも、だから、だからこそ。
「俺にはまだ、力強く君の手を取る資格がない。ならば、恋人から始めたいんだ。もちろん結婚を前提として」
望夏との絆を築くために、恋愛の初歩から歩んでいきたいと願っていた。
勉強に費やし、失った青春を取り戻したいといった、ぬかるんだ焦りに支配されているわけではない。
(そもそも俺が選ばれなければ、意味がないけれど)
今後もきっと、失態を見せるであろう自分に、応えてくれると言うのなら。筧二も望夏を全力で大事にしたいのだ。
望夏は話の内容を咀嚼するように、淡々と尋ねた。
「恋人から始める、って。たとえば、どんな風に?」
「この前は、ふいに筧二先生と言われて、面食らってしまったけれど……会社の外では、名前で呼び合うようにしていきたい」
「呼んでみて」
「望夏」
筧二の心臓は痛いほど高鳴っていたが、初の呼び捨ては言った本人の耳にも、心地良く響いた。望夏の瞳が心なしか輝く。
「もう1回」
「望夏」
つまり、と、彼女は切り出す。
「会社の外で呼び合うってことは、退勤後か、休日のデートでって意味ですよね」
筧二は首がもげるかと思うくらい、激しく頷き返した。
「私、仕事中にうっかり、口に出さないよう注意しないと。よろしくお願いしますね、筧二さん」
さっそくさらりと名前を呼んで、望夏は表情をゆるめた。対照的に、面食らって息を呑む筧二。
「私のことはずっと『御蔭くん』って、苗字でばかり呼んでくるんだもの。名前なんてこれっぽっちも、覚えてくれてないんだと思ってました」
「いいいいい、いいや、それはない!」
(あきれるほど毎日、頭の中でシミュレーションしてきたさ!)
社内では規律を守りたい性格と、照れくささがまさって、呼びたくても呼べなかった。
「なんかいいなぁ、先生……ううん、筧二さんって律儀で。あの夜もそうでした」
「あの夜?」
「私たちがキスした夜ですよ」