目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
食事会1.

 次の日は夕方から、街には小雨が降った。筧二は17時半過ぎ、秘書用のデスクに座る望夏に断って、先に事務所を出た。夕飯を摂るレストランで彼女を迎えるためだ。駅方面へと向かう人の波に、早足で紛れ込む。

(財布の中身は充分。キャッシュカードも、ある)

 実は、このあと食事をするイタリアンの店に、筧二は行ったことがなかった。でも『彼』の勧める場所であれば、味やサービスに間違いはないだろうと確信をしていた。同期の中でもとびきり情報通の男、宮下部みやしべ 彬年あきとしだった。

 前日の昼、宮下部がいるであろう社内の喫煙所に、筧二は足を踏み入れた。ベランダに相当する、屋根のないスペースだ。筧二には喫煙の習慣がないので、鼻から口を腕で隠し、男性社員の間を歩いてゆく。

「よお、めずらしい奴が来たなあ」

 宮下部は自ら声を掛けてくれた。


 同期入社ではあるが、筧二には他社に勤めた経験があるため、宮下部は30歳になりたてだ。サマースーツの細身の男の横に、ちょっと教えてくれ、と、すぐさま駆けてゆく。

「20代後半の女性によろこばれそうな……平日の夜、気軽に行けるレストランを、近場に知らないか」

 くゆらせていたタバコを口元から手に移して、宮下部は「ならあそこはどうだ」と、1つの店名を挙げた。

「値段も手頃だし、社内の女の子たちにおいしいって評判だよ。堅苦しすぎないのも魅力だ」

「なるほど、わかった。恩に着るよ。あとでスマホで検索してみる」

「筧二、もしやデートか? どんな子が相手なんだ? なんなら個室のある店を紹介してやろうか」

「個室? ゆっくりできそうで、それもいいな」

「おいおい。夜の食事、個室で二人きりっつったら普通は、いちゃいちゃする目的で行くんだよ」


 いっ、いちゃいちゃ……?! 真に受けて筧二が硬直する。


「ひ、必要ない。今回は真面目な話をするつもりなんだ」

「ふーん、まだごはん友達ってとこかぁ。あ、いい雰囲気に持ち込めた時に備えるなら、2丁目付近の店の方がおすすめかな。脇道にホテルが充実してて――」

「だから、不要だって! まったく。ありがとうな」

 つっけんどんに言って、筧二はその場を去ろうとした。しかし、数歩進んだところで、赤い顔をしたまま戻ってくる。

「……宮下部。もう一軒聞きたかったんだ。このスイーツの店、どう思う?」

 胸元のポケットから出したスマホに、ケーキを中心とした洋菓子を扱う店先の写真を映した。口から細い煙を吐いた宮下部は、ふむ、とつぶやく。

「悪くないチョイスだな。前に女の子からの差し入れで、ここのマドレーヌをもらった。なかなかうまかったよ」

「了解、また何かあれば相談する。食通のお前が友達で助かるよ」

「浮いた話が極端に少ない筧二のまわりで、20代の年下女性が食事の相手。なーんか誰のことか、見当がついた気がするね」

 唇にタバコを挟んだ宮下部が、探るような目つきでにやにやしている。元から勘の鋭い男だ。

「言っとけ。じゃあな」


 下手な反論は呑み込んで、照れたままの筧二は、午後の仕事に備えようと喫煙所をあとにした。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?