そして、いざ店内に足を踏み入れると、
「ああ先生。こっち、こっちですー」
既に席に着いた望夏がほがらかに手を振っていたので、筧二は安心を通り越して、拍子抜けしそうになった。
「や、やあ」と言いかけて口をつぐむ。
(いくらなんでも馴れ馴れしすぎるだろ)
おはよう、としどろもどろに告げ、筧二もまた彼女の向かいに腰を下ろした。今日も望夏の髪のキューティクルが輝いていて、前が向けない。
極力無表情を装ったが、その間も望夏はにこにこと、よくしゃべった。
でもやはり、無理をさせていたようだ。数分経つ頃にはぽつり、ぽつり、としか、言葉が聞こえなくなる。
筧二はやっと、望夏の目を見ることができた。
「御蔭くん。本当に昨日は、すまなかった」
「せ、先生」
やだ、頭を上げてください、と望夏は口走った。けれど、スーツの身体を丸めたまま、筧二は顔を伏せていた。
「つまり、あのようの愚行は……いわゆる魔が差した、というか」
年甲斐もなく、話せば話すほど、頭が混乱してくる。
「出来心だった、と」
「できごころ」
「細かい事情を離せば長くなる。そういう方向で、今回はどうか、収めてくれないか」
その細かい事情が気になるんですけど~…… 望夏は納得のいかない表情だ。
(話せないんだ。決まりのことまで)
青ざめ始めた顔を隠すように、筧二はもう一度、深くこうべを垂れた。
「とにかく、君の名誉と尊厳を傷つけたことに変わりはない。できる限りの詫びと贖いはさせてほしい。いや、させてください
無意識ながら丁重に、さん付けをして、フルネームを呼んでいた。
ご実家まで、謝罪を申し入れにいった方がいいんだろうか? 筧二が思わずつぶやくと、
ええ? そこまではちょっと…… 望夏も言葉を濁している。
「りょ、両親の耳にまで入れるレベルの話じゃないような。良い大人の間で起きたできごとですから」
「いやしかし」
「安城先生には、私があとから、訴訟やユスリをするタイプに見えるんですか?」
(断じて見えない! けども)
こんな不手際、学生時代を含めてしでかしたことがないから、程よい償い方がわからないのだ。
交際はもちろん、女性には極力近づかずに生きた代償がこれだ。この期に及んで、弁護士という身分すら危ぶんでいる。情けなくてどんどん視線が下向きになる。視界にはテーブルと、反対側にある望夏の丸まった両手しか見えない。
望夏が、すぅ、と息を吸ったのが、気配でわかった。
「私、昨日のこと、誰にも言いませんよ。誓約書つくっても構わないですし」
「御蔭くん……」
「なんなら、うれしかったくらいですから。先生と――ふふ、キスできたこと」
彼女は小首を傾げて、はにかんだ。健康そうな頬に赤みが差していた。
(大人の女のふるまいってやつか……)
上司だったはずの男に唇を奪われ、嫌だったりこわかったりした思いもあるだろうに。やらかした側さえ、幾分救われた気持ちにしてくれる笑顔だった。
(ただ、もう、伝えることも叶わないだろうけど)
素敵な女性だと認識していたのは、嘘じゃなかった。
初めて付き合うなら、よく働き、よく笑う、こんなひとがいいと。
半袖ブラウスに包まれた望夏の上半身が、イスの端に向けて、大きく振れた。
「はいおしまい。キスの件は、2人だけのひみつですね。安城先生、朝ごはんは食べました?」
「へ? い、いや。帰宅後も思い出しては、よく眠れなくて」
ふふ、と笑う声。
「だと思った。目の下、黒くなってるもの」
「待っててくださいね。あたたかい飲み物、持ってきますんで。ついでに、単品のモーニングも、追加しましょう」
そう言ってきびきびと、卓上備え付けのタブレットで、トーストやサラダを注文していた。筧二の元に湯気の上がるカフェラテを差し出すのにも、時間はかからなかった。
(本当に、よくできた子だな)
ほっとするぬくもりのラテをひとくち。泡を引き込むように唇を結ぶ。
望夏は自分用についできた、冷たいフルーツ紅茶がおいしいと、日差しの中できらきら笑った。
対して筧二は、中身がからっぽだと思い知る。裁判や他人の弁護を経て、まとまった金を稼いでくる能力だって、この場では意味を持たない。年嵩のある、勉強だけがとりえの男がいるだけだ。
店員によって、サラダの小鉢と、トーストの平皿が運ばれてきた。ついでに望夏が、腹の足しにと頼んだ、小ぶりなヨーグルトも彼女側に並んだ。
筧二は視線の先にあるヨーグルト付近を、ぼんやりと見ていた。
「先生? 食べたかったんですか。なら食後にもうひと品」
「違うんだ、御蔭くん。おとぎ話にもならない、つまらない寝物語だと思って……最後にひとつ、聞いてくれるか」
業務上のパートナー契約を、解消されてもいい。どうしても聞いてもらいたかった。
筧二は捨て身の覚悟で、自分が日本が存在するのとは、異なる世界線の国の血を引いているのだと語った。
同じ出自の人間は、世の中に複数いるはずであること。
そして、結婚する相手とだけ唇を契るよう課せられ、決まりを守って暮らしてきたことも――
(あまりにも馬鹿げている)
自由恋愛の進んだこの国で。純潔教育だとか、貞操観念の薄れも叫ばれて久しい現代だというのに。
かつ、同年代なら直面していそうな男女のあれこれに、未経験だと白状しているわけで。それでも望夏ならなんと返事をするか気になった。
しばらく呆けていた望夏の、ピンクのルージュの口が、開く。
「安城先生はたしか、独身でいらっしゃるから……つまり先生にとって、最初のキスがまさか、私?」
「まぁ、そう、なるな」
「すごい! 夢みたい」
弾む笑顔で、彼女の両手がパンと鳴った。瞬間、筧二は目が覚めたような気分になった。
(一蹴されても仕方がない場面だったはず)
望夏は、心底幸せそうに笑んでいる。昂揚しているのか、頬の赤みが増していた。
「言ったじゃないですか。私はうれしかったんです。昨夜のコト。酔っていたりどんな背景があったとしても」
だって。
「安城先生と恋人になれる人は、うらやましいなと思っていたから」
夜遅くまで、仕事に真摯に向き合う姿に、少しずつ惹かれていたと打ち明けられた。
筧二はもちろん、あいた口が塞がらなかった。自分もまた、気が回り、一生懸命働いてくれる望夏に、最初から憧れを持っていたと告げた。
「でなければあの秘書課から、君を専属に選ぼうなんて勇気、湧かんよ」
望夏本来の所属である第一秘書課は、第二課または第三課で補助や事務経験を積んだ、精鋭OLのみが在籍する部署だ。
残りの二課と違い、個々が社内の弁護士とフリーで契約をする。案件ごとであったり、期間であったり、雇用形体はさまざまだが、専属の付き人なのだからそこそこの費用を要する。
望夏の器量の良さや、申し分ない仕事ぶりは、以前から弁護士間でも話題になっていた。
共に組んだことのなかった筧二は、彼女の前の契約が切れるや否や、補助に付いてほしいと申し込んだのだ。
なんだか二人、ほんわかした気持ちで、店を出た。勤務先は社内恋愛を推奨していないので、とりあえず二人、距離を取って別々に出社する。
(……いいんだろうか、この流れ。うまくいきすぎてやしないか)
幸せな反面浮足立ったまま、筧二はデスクに赴いた。
午後も望夏は変わりなかったが、筧二だけはむず痒い気持ちで終業時間を迎えた。
顔がどうにもゆるんで、引き締めようとしても口元がにやけてくるのだ。
できるだけ平常心を心がけ、翌朝、一人暮らしのマンションからいつものように、事務所に向かった。