目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報
第1話:遅咲きの安城先生は、ゆっくり恋をする


(不同意性交……いや、わいせつ罪……っ!)


 朝、6時前。1人暮らし先である自宅マンションにて。洗面台の鏡面に自分の顔が映った途端、筧二けんじはうめいて頭を抱えた。

 昨晩はなんてことをしてしまったのかと、目が冴えて眠れなかった。もちろん、部下の望夏みなつに対してである。起訴されれば10年以下の懲役だってあり得る。

(相手になんの了解も取らず。ましてや、交際しているわけでもないのに)

 自らキスしてしまうだなんて。

 当時はお互い酒に酔っていた、くらいでは、言い訳にもならない。

 おそるおそる筧二は顔を上げた。しかし、鏡の中に唇と、黒々とした髭が映り込むと、隠すように己の顔に手を当てた。


『筧二。将来を約束できるかたと出会ったら、お付き合いの初期に、必ず私の元に連れてきなさい』


 実家の母親に、口酸っぱく言われて育った。母は普段からきっちりと着物を着こなし、冷たい目つきを若い頃から浮かべていた。

 筧二には兄が1人いるが、兄弟2人に、母は同じように言い聞かせ、躾けた。小学生だった筧二は母親を、単に保守的で管理したがりの人と捉えていた。

 真実を知ったのは、高校生の頃だ。母方の祖父が亡くなった。

 自分がすみに記載された相続用の戸籍謄本を見て、筧二は驚いた。生年月日の日付が間違っていたからだ。すみずみまで調べると、兄に関する項目も、ところどころ事実と異なっている。

 母に問うと『当然です』との返答があった。『【反転の国】と日本では、こよみがずれているからよ』と。筧二が聞かされていた誕生日こそが、正式なものだと言う。戸籍に登録した日付は、日本用に変換したものに過ぎないのだと。


 反転はんてんの国――

 それが筧二たち一族の、本当の出身国の名前。

 日本と似て非なる国。すぐそばにあるらしいが、こちらからは見ることも触れることも、出向くこともできない。地図にさえ存在しない。

 文化の発展がやや遅れているため、子供が生まれると日本で暮らす者がほとんどだという。ただし、処女性・童貞性に関しては非常にこだわりがあり、高い誇りを持って移住してきているようだ。

 代表的なものが【一度でもキスをした男女は必ず、結婚しなければならない】だろう。

 鏡の中の、決して見目は悪くない筧二が肩を落とし、うつむき加減になる。


 現在、三十路を過ぎる筧二だが、この言いつけはいつでも頭のかたすみにあった。

 大学進学と同時に下宿を始めて以来、実家には数えるほどしか帰っていない。母親への依存や服従の傾向もないが、なんとなく異性を避けるきらいにあった。

 法学部在学中から、華やかな誘いや出会いはもちろんあった。それもすべて『友達』程度の関係で終わらせ、今に至る。

 リスクヘッジマネジメントと幼い頃からの潔癖性が、筧二を構成してきたはずだった。ところが。

(呪いかっての。クソ)

 望夏相手に、前ぶれのないキスをするという人生初の禁忌を犯したのだ。憎からず思っていた女性に。  


 とにかく水で顔を洗い、筧二は大きくため息をついた。前のめりに体重を掛け、水道の蛇口を音を立てて閉める。軽く身だしなみを整える。

 このあとは望夏に詫びるため、24時間営業のレストランで待ち合わせだ。会社を経由してから向かう分、余裕を持って家を出なければならない。待てよ彼女は果たして来てくれるんだろうか。一抹の不安が胸をよぎる。

 経験豊富な同僚であり男友達・宮下部みやしべが聞いたら『筧二って相変わらず大げさ~! 身体の関係持ったわけでもないんでしょ』と、笑い飛ばされそうな事態だけども。

(違うな、むしろ)

 明るく誰かに笑ってほしかった。それほど筧二の心は厚い雲がかかり、淀んでいた。実際は、自分の出自の秘密――キスした相手と必ず結婚という仕来たり――など誰にも口外していないので、気の重いまま過ごすしかなかった。

(おおらかで菩薩のような|御蔭《おかげ》くんとはいえ、今回はさすがに怒っていなきゃおかしい――……)

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?