本人からの依頼で、私は次の裁判が終わるまで彼の助手をしている。契約が始まったのがおよそ2か月前。4月の終わりのこと。
その安城先生から、昨晩いきなり、キスされた。人影のまばらな路上。同僚たちとビアガーデンに行った帰りだった。
春から初夏のこんにちまで、向こうも私も特に思わせぶりな言動はしてこなかった。関係は至って良好。指示の的確な弁護士と、過不足なく動き回れる秘書兼助手。それ以上でも以下でもなく、働きやすさに私は感謝していた。
(だったのに)
夜が明けて、日の光を浴びながら、私は自分の唇に人差し指の腹をそっとすべらせた。
毎日、ハンドクリームでケアを怠っていない指も柔らかいけれど、先生の唇はもっと柔らかかった。私の肩に触れ、振り向かせた時の手の厚み、口元に伝わる熱もありありと思い出す。やだ、顔が熱くなってきた。男の人とキスとか、数年ぶりだったからなぁ。
「……それにしても」
キス直後の安城先生、目を見開いて『自分からしたけど、めっちゃ驚いてます!』と言わんばかりの硬直ぶりが印象的だった。職場では想像できないくらい狼狽していた。私だってあわてていたけど、逆に冷静さを取り戻していったくらいだ。
弁護士といえば通常は、ザ・金! 女! 遊び! ってイメージじゃない?
まぁ安城先生からは、あんまりその手の香りはしないけれども。一夜限りとか、苦手なタイプなのかな?
「なーんちゃっ、て」
実直な仕事ぶり通り、ワンナイトや遊びの恋、しない人だといいなぁと思っている。むしろそう願っている。
私自身が地味で実は奥手だからだ。女の子中心だけど友達も多いし、性格は暗い方じゃない。でも心では平凡、普通を望んでいる。
現在、彼氏はいないけれど(というかいた時期の方が少ない)、30歳を目前にして誰かのお嫁さんになれるのなら願ったりだ。
白く四角いテーブルに覆いかぶさるようにして、私はたまらずにやけた。軽く手足をバタつかせる。
今は平日の午前9時。ファミレスの大きな窓際は、晴天で少し暑い。
普段なら出社して既に業務に就く時間だけど、昨夜の別れ際、安城先生きってのお願いでここに集まることになった。
『いきなり、こんなことしてすまない。あすの朝、できるだけきちんと説明するから』
本人が謝っている行ないに対する、釈明を聞かせてもらう。会社のタイムカードは2人分、先に出勤して切ってきてくれるそうだ。
そう。どうして急に口づけなんてしたんだろう。きっとよっぽどのことなんだ。私から何か行動を起こすにしても、そのあとでいいはず。
(教えて。安城先生)
ほんのちょっとでも、私を異性として『いいな』と思っていてくれたの? だとしたらうれしい。
だって私も、近くで働く日々の中で、先生に惹かれ始めていたのだから――