「遅いぞ、いつまで待たせるんだ!」
夜会の用意を済ませて屋敷の外に出ると父の背中が目に入った。
急遽手配したであろう馬車の横に立って、その足でトントンと忙しなく地面を叩いている。
「申し訳ありません」
そう口にして慌てたふりを繕いながら近づくと、振り返った父の瞳が私の姿を捉える。
乾いた血を連想させるような赤黒く地味なドレスを視界に収めるとたちまち
「なんだそのドレスの色はっ!」
「……いつもの通りですが?」
「辺境伯様の夜会に相応しいものを用意しろとメリンダに伝えたはずだが? 彼女には暇を告げる必要がありそうだな」
メリンダは私が絶対に選ばないと知りながらも派手なドレスをちゃんと用意はしていた。
あれは決して嫌がらせやイタズラのつもりではなかったのだ。
自分の仕事はちゃんとしながら私が選ぶであろう着慣れたこのドレスもちゃっかりと用意してくれていたのがメリンダらしい。
「いいえお父様。派手なドレスも用意してありました。けれど私が無理をいってこちらを着ることにしたのです」
「くそ、着替えて来いといいたいが時間が……。ええい、もうそのままでいいからさっさと馬車に乗れっ!」
男爵家当主の許しを得て私は馬車に乗り込む。
昔は父もこんなに当たり散らすような人ではなかったのだけど。
結婚、結婚と言い出すようになってから人が変わってしまったかのようで少し悲しい。
「そんな格好では閣下に見初めて頂くのも難しいとは思うが……。せめて顔を覚えて貰えるよう振る舞うのだぞ!」
そんな父からの指令のような言葉を受けて、私は曖昧に頷いた。
私に似て顔は整っているのに……などとブツブツいっているけれど、そんな妄言は聞かなかったことにしてさっさと扉を閉める。
「では行って参ります」
そう一言告げると馬車は走り出す。
行く先は辺境伯様のお屋敷だろうか。
見慣れた街をゆっくりと馬車が走っていく。
あとに待ち受けるであろう地獄を想像しながら、私は流れていく景色をぼんやりと見つめ続けた。
*****
車輪がキィと鳴って止まり、目的地に到着したことを知らせてくれる。
ややあって馬車の扉が開かれると、御者の青年に手を取ってもらい馬車を降りた。
あまり街を歩き回らないので詳しくは知らないけれど、この辺りは貴族街の中でも王城に近く、まさに一等地といえる場所だ。
そんな場所にウチの屋敷とは比べ物にならない大きさの屋敷が建っている。
これはきっと辺境伯様のお屋敷なのだろう。
本邸はもちろん領地にあるはずなので、これは別宅ということなのにこの大きさだから唖然とするばかりだ。
「はぁ、行きたくないけど仕方ないか……よしっ!」
私はちょっとの我慢だ、と覚悟を決めて歩き出す。
入口で招待状を見せ、案内された部屋に足を踏み入れるとそこは、むせ返るような甘い香りで満たされていた。
これが欲の匂いといわれれば納得してしまいそうなほどだ。
横目で辺りを伺うと、そこにはどこぞの名家の令嬢が目についた。
やはり男爵家程度の身分しかない自分にとって居心地がいい場所ではない。
「目立たないように、目立たないように……」
呪文のようにそう唱えながら顔を伏せ、落ち着ける場所を探した。
退屈しているように見られず、それでいて私という存在を隠せる場所。
——あそこがいい。
並べられたテーブルとテーブルの境、その壁際。
きっとテーブルの周りで参加者たちが会話に花を咲かせるだろう。
それに参加している人たちの影に隠れていればきっとすぐに終わるはず。
私にとって最適な場所を見つけて、歩き出すと横合いから耳に入れたくない声が聞こえた。
「あら? 壁の花じゃない」
その声の主はブロンドの縦ロールを揺らしながら現れた。
豪奢なドレスを着て、濃い化粧をこれでもかと施している様が今夜にかける気合を感じさせる。
「……シェリングフォード伯爵令嬢様、ごきげんよう」
そう挨拶をする私の姿をまじまじと見つめてからシェリングフォード伯爵令嬢——ミザリィは口を開いた。
「あなたもしかして会場を間違えているのではなくて?」
「え、っとどういうことでしょう」
意味を理解出来ずにいる私へ、ミザリィは容赦ない毒を吐きかけてくる。
「だって、そのドレスお葬式に行くときに着るものじゃなくて?」
嘲りを隠そうともしない顔で純粋な悪意をぶつけられ、言葉を失った私に勝ち誇った顔をして続ける。
「それにしても貴女みたいな壁の花が辺境伯様の婚約者になれると思っていて?」
「こ、婚約者? 私が……ですか? いえいえ、まさかそんな事は考えていませんけれど」
私が慌てて否定をするとミザリィは訝しげな顔をする。
何かまずいことをいったのだろうか。
「はぁ? それならなぜこの会に参加をしているのかしら? 行動と答えが矛盾していてよ」
「ええと、私はただ参加しろという父の意向に従って来ただけで……」
困惑した私の答えを聞いたミザリーは哀れな子犬を見るような目をした。
それはまさに見下しているといった様相で。
「ふんっ、子が子なら親も親ね」
ミザリィは私どころかエヴァンス家をまるごと見下し、そして用は済んだとばかりに笑いながら去っていった。
もちろん去り際にわざと足を踏んでいくことも忘れないのはさすがだ。
「痛かったぁ、けどなんとか乗り切った……」
いつもの夜会ではもっとネチネチネチネチと私を馬鹿にしてくるから身構えたけれど、少し拍子抜けした気分だ。
普段はミザリィについて回っている腰巾着の令嬢たちが側にいないからかもしれない。
あの娘たちがミザリィの一言一句に相槌を打つから長くなるのだ。
珍しいことに、今日は別々の場所に居てお互いを牽制しているようにすら見える。
喧嘩でもしたのだろうか。
思い返すとミザリィも昔からこうやって突っかかってきていたわけではなかった。
それどころか身分差があるにも関わらず仲良くしていた時期すらあったくらいだ。
いつからこうなってしまったのだろうと考えてもきっと無駄。
もう関係は元に戻らないのだろう。
僅かばかりの
「それにしてもミザリィがいってた婚約者って一体どういうことだろう……?」
伏せていた顔を上げてよくよく見れば部屋の中には妙齢の令嬢の姿しかないし、何かがおかしいような……。
そう考え始めた時だった、部屋の奥にある扉が開くと一人の老紳士が姿を見せる。
軽く咳払いをすると、ホールに集められた淑女たちは一斉にその紳士へと視線を移した。
「ようこそお集まりくださいました」
老紳士は洗練された美しい所作で腰を折る。
それからゆっくりと頭を上げると、続けて衝撃的な言葉を紡いだ。
「辺境伯閣下の——」
——婚約者候補者の皆様、と。