——チクチクチク。
針が布の上を滑るように踊る。
それは時計の秒針が時を刻むように。
一定のリズムを繰り返すことでやがて糸は模様を象っていく。
静謐なこの部屋を刺繍の音だけが支配する。
私はこの時間が大好きだった。
そんな大好きなゆったりとした時間は、乱暴な足音で終わりを告げる。
「おい、ローゼリア! どこだ?」
怒鳴るような声が廊下から聞こえてきて、私はため息を漏らした。
顔を見るたびに行き遅れ、なんて罵ってくる父とは普段から会話らしい会話などない。
そんな父に呼ばれていい話だった試しなんて一度としてないのだから、今度だってきっとそうだ。
このまま隠れていたいという暗い気持ちを押し殺しながら完成間近の刺繍を机に置いた。
「はい、お父様。そんなに慌ててどうかしましたか?」
「ちっ、ここにいたか。何度も呼んだんだぞ」
眉間に皺を刻みながら舌打ちをされても聞こえなかったものは聞こえなかったのだから仕方がない。
「すみません、作業に集中していたので」
「ああ、もういい。そんなことよりも早く支度をしなさい」
ほら、きた。
用件を尋ねるといつもこれだから嫌になる。
最初から自分の要求を通すことしか考えていないその態度に、不満な表情を繕う気にすらならない。
「ええと、何の支度でしょうか? 作りかけの刺繍を今夜中に仕上げてしまいたいのですが……」
「刺繍だと? そんなものはあとでも出来るだろう。とにかく今夜は夜会に行ってもらうからな」
——そんなもの。
私の生き甲斐そのものである刺繍をそんなもの、と言い捨ててしまうこの人はやっぱり嫌いだ。
でもそれよりも更に嫌いなものがある。
それが……夜会だった。
父が私を強引に行かせようとするのは、そこで私が高貴な人に見初められることを夢見ているのだろう。
そんなこと起こるわけがないのに。
「こんな急に夜会……ですか?」
「ああ。あの辺境伯様が領地からここ王都に出てこられたようで急遽開催されることになったんだ」
「辺境伯様が?」
私は辺境伯様にお会いしたことがない。
それもそのはず、辺境伯様の領地は隣接している隣国との小競り合いが多いらしい。
そのため、辺境伯様は隣国を牽制するためにほとんど領地を出ないからだ。
「ああ。どうやら一昨日の晩にふらっと登城したらしいのだ。我が男爵家程度ではその理由など知るよしもないがな」
確かに
そう考えると夜会に招待されるのも不思議なくらいだけれど……。
「というわけで急遽開かれることになった夜会へ無理矢理ねじ込んできた」
なにを誇らしげに胸を張っているのか。
ふんすと鼻を鳴らす父の姿を見ていると頭が痛くなってくるというものだ。
「ドレスはもうメリンダに用意させているからお前はさっさと着替えてきなさい」
ああ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。
子供のようにそうやって泣きわめければいいのに。
けれど私は子供どころかもう二十四になるいい大人だ。
父の弟の子供が先月十七歳で結婚したことを考えれば、確かに行き遅れと誹られても仕方がない年ではあった。
もちろん結婚したくないわけではないし、憧れだって人並みにある。
ただちょっとだけ刺繍のほうが大事で、縁談を事前に全てお断りしていただけだ。
そうして気づけば二十を過ぎて、焦れた父は私を無理矢理パーティや夜会へ行かせるようになった。
娘を地獄へ定期的に送り込むようになったのだ。
そこが地獄だと分かっていても男爵家の令嬢である私に拒否権はない。
だから今回もため息まじりで「わかりました」と返事をする……そうするしかないのだから。
私の了承を取り付けた父は慌ただしく去っていく。
そんな父の背中を死んだ魚の眼で見つめていても現実は何も変わらない。
それでも呪わずにはいられなかった。
「はぁ……」
何度めかも分からないため息を吐き、重たい足を引きずりながらメイドのメリンダが待っているであろう部屋へと向かった。
「お待ちしておりましたお嬢様」
恭しく声を掛けてきたメリンダの傍には三体のトルソーが用意されている。
それぞれに赤、青、桃と派手なドレスが着せられていた。
それらを目にすると、私は臓腑がくるりとひっくり返るような感覚に襲われた。
「うっ……吐きそう」
きらびやかなドレスを身に纏った自分を想像したら吐き気を覚えてしまった。
パーティへの拒否感からか、いつしかドレスを見るだけでこうなるようになってしまったのだ。
「あらら、大丈夫ですか? お嬢様」
「メリンダ……何、これ?」
「そりゃあもちろん夜会用のドレスですよ。どれにしますー? それによって髪型も変わりますからねー」
「あなたわざとやってるでしょ?」
私はメリンダをなるべく怖がらせられるような怖ーい顔つきで睨んだ。
けれどそんなことを意にも介さず、メリンダはイタズラっ子のような顔で舌を出した。
「だってー『なるべく目立つような召し物を用意せよ』と旦那様に言われちゃったものですからー」
メリンダの母は我がエヴァンス男爵家のメイド長だ。
その縁でメリンダとは幼い頃からの付き合いだった。
だから今でも気安い関係ではあるけれど、あの人の真似が上手なのだけは妙に腹立たしい。
いやいや今はそんなことよりもドレスのことだ。
「これは片付けていつものアレを出して」
「でも旦那様に怒られちゃいますよー」
「目立つドレスなんか着ていったらどうなるか分かっているでしょう?」
「はいはい、分かりましたよ。けど旦那様への言い訳はお嬢様がしてくださいよ?」
そういいながらトルソーを手際よく片付け、ちゃっかり用意していたいつものドレスを持ってきてくれた。
「でも今日は辺境伯閣下の特別な夜会らしいですよ? 本当にこれで行くんですか?」
「それなら尚更でしょ」
私は手早くドレスを着せてもらうと、鏡台に腰を下ろす。
鏡の中の自分はひどい有り様だった。
母譲りの銀の瞳は光を失っているし、父似の赤い髪は心なしかボサボサだ。
これから起こることを想像するとそうもなるだろう。
「髪はどうします? 頭の横で蝶の形にまとめてコサージュなんか着けちゃったりしてー」
私の髪を丁寧に梳かしながらメリンダが聞いてくる。
そんなの知っているくせに意地悪だなあ、もう。
「いつもので」
「……ですよねー」
メリンダは私の身の回りのこと全てをこなしてくれる。
こうやって髪も上手に結ってくれるし、お菓子を作ってくれることだってある。
夜会へも一緒に付き添ってくれたら少しは違うのに。
そんなことを考えていたらあっという間に支度が終わった、終わってしまった。
「はい笑顔笑顔。そんな顔じゃ殿方も寄ってこないですよー」
「それでいいの。私が夜会でなんて呼ばれてるか知ってるでしょ?」
「まぁそれはー、そうですけど……」
いつも朗らかなメリンダが気まずそうな顔をするのには理由がある。
それは私が夜会へ行くたびに周りの令嬢たちからひどく蔑まれ、罵られているからだ。
わざとワインをかけられて、ドレスを汚して帰ることだってある。
その度にメリンダは悲しそうな顔をして、何も言わず着替えさせてくれるのだ。
当然そんな夜会になど行きたくないのに父はそれを許しくれなかった。
だからだろう、いつしか私は誰とも話さず、誰とも踊らず、壁の側でひっそりと存在を消すようになった。
そんな私をみて周囲はこう呼んだ。
——壁の花、と。
つまり私なんか夜会にいようがいまいが変わらないのだ。
いや、添え物でしかない私はむしろいないほうがいいのかもしれない。
先日の夜会だって……と嫌な記憶がフラッシュバックしかけたところで後ろから柔らかい感触に包まれた。
「お嬢様……」
きゅっと抱きしめてくれたメリンダの手が暖かくて、嫌な気持ちが薄れていく。
しばらくそうして、気分が落ち着いた私はむりやり笑顔を作った。
「さ、用意もできてしまったことだし……壁の花の出荷といきましょうか」