強く押される感覚の後に、懐かしくて、最悪な香りを嗅いだ。散々、医療室で嗅ぐ、微かに香るだけで十分な匂い。私は反射的にナナの目を塞いだ。
「メルン――さん――?」
ナナは、戸惑い、か細い声で聞いてくる。私は、彼女の手を握りながら言った。
「ナナ。目、閉じてて。見ない方がいい。大丈夫、ちゃんと私が守るから」
まだ彼女は幼い。穏やかに往生した者であれば、私はこんなことはしない。しかし、彼女のこの有様は――決してまだ幼い彼女に見せていいものではない。
「は、はい――」
ナナがしっかり目を閉じたのを確認してから、私は再び向き直る。
こんなこと――誰が想像できるんだ。私は改めて目の前に広がっている光景を見る。幻術か何かの類だと思いたかった。しかし、夢に対しての適正が誰よりもある私が、そうではないということを一番よく知っている。
これは悪夢ではなく、現実で、そして悪夢が現実に下りた姿だ。
「そんな――パラレルス――」
リーゼの声が聞こえるが、私はそれに応える言葉も動作も知らない。
私はナナの手を引きながら、その場所へと近づいた。
近づくほどに、雫が垂れ落ちる音がする。赤い雫は玉となって金糸を伝って、志半ばで石床へと落ちていった。何度も伝い、何度も落ち、緻密に仕組まれてるのではないかと思うほど、一定で、無機質だ。メトロノームのように、変化のない――。
雫を辿った先には銀髪の少女の姿があった。細い金糸は周りの壁から伸び、まるで蜘蛛の巣のように彼女の身体を捕えていた。彼女の首や腕、足などに何重にも巻き付き、そこに通る大きな血管を切り裂き、彼女の玉のような肌に食い込んでいた。
ぽたぽたと落ちる雫は今も暇がない。パラレルスの顔にはもはや生気はなく、その目を見ても、ただただ暗い水底に沈むような感覚しかない。感情が読み取れない。
それはつまり――彼女にもう感情の沸く余地がないことを示している。
私は強く目を閉じ、しばらくそのまま――そして、目を開けた。
「リーゼ、この状況、記録できる?」
しかし、彼女からの返答はない。
「リーゼ?」
再び聞くが、彼女は意味のある言葉を返さない。
「私――私は――」
ただ、彼女はうわ言を繰り返すばかりだ。
願いの強さはそのまま執着の強さに繋がっている。彼女にとって、パラレルスの死は失われた執着であり、その精神的な衝撃は強いものになる。だが、しかし、彼女にはここで動いてもらわないといけない。
「リーゼ!」
強く呼びかけるとナナの身体がびくりと震えた。リーゼの声はぴたりと止み、深呼吸の音を何回か響かせた。そして、いつも通りの口調で話し始める。
「取り乱しました、すみません――。可能です。写真のように鮮明にとはいきませんが」
声は震えてはいるものの、冷静になろうとしているのが見て取れる。私は頷いた。
「じゃあお願いするよ。私は、彼女を調べる。調べ終わったらすぐに撤退するよ。何が起きたかわからないし、『糸紡』の術の専門家もここにはいない。これ以上は危険が増すばかりだ」
パラレルスの身体に触れると、金糸がさらに食い込み、私はすぐに手を離した。下ろしてあげたいのはやまやまだが、それにはまずこの糸を切除しなければならないだろう。でないとバラバラになった彼女の死体を持ち帰ることになる。それは避けたい。
それに、この糸は強く張っており、何かに繋がっている可能性もある。つまり、罠が牙を剥く可能性も当然ある。街同士の戦争では、死人や怪我人を罠にする光景を見たことがあったが、敵は不利益と見ればすぐに殺害を行うような――そして『治安』の術を潜り抜けてこのような罠を仕掛ける奴だ。金糸がむき出しになっている以上、私にできることはない。
「ごめん、パラレルス――あとで必ず下ろしてあげる――」
私は吊り上げられた彼女を下から覗き込み、その目をもう一度見た。移る色は彼女が生まれ持った翡翠ではなく、深淵にも思える黒だ。その深さに、私の意識も遠くなってしまいそうだった。
ああ、死人の目を見るのはいつだって慣れない。慣れたくもない。特に、さっきまで何の変哲もなく話していた死人の目は。だが、私はじっと見続けていた。その目から願いの残滓が浮かび上がるまで。しかし、いくら待っても、私は彼女から、願いを見つけられなかった。
「願いがどこにもない。彼女は即死だったんだ」
いくら死が願いを強めるとしたって、願う隙がなかったら、それは形として残らない。パラレルスは何が起こったのかもわからないまま死んでしまったのだろう。
「メルンさん――手――」
私はナナから慌てて手を離した。気づかぬうちに強く握り締めてしまっていたようだ。
「ごめん、ナナ――大丈夫?」
「メルンさんも、リーゼさんも、大丈夫ですか――?」
「ああ、大丈夫だよ」
ナナの頭を撫でつけると、リーゼが声を上げた。
「記録、できました。それと、一つ、おかしなことが」
「なに?」
「パラレルスの足元の本――題名、読めますか?」
「足元――?」
リーゼに言われ、血だまりの中を見ると、赤色に紛れた深緑の本を見つけた。表表紙にくっついた血を袖で拭うと、そのタイトルが見えた。
「『リネーハの一日』――そう書いてある」
「――ありますね。私の中に確かにあります。それと同時に――」
リーゼは確信めいた声を上げた。
「私が蔵書として記録しているということは、おそらく下の階にあった本のはずです。それがわざわざここに隠されていた。黒縄どもはなぜかこれを、死守するつもりでいたのではないですか」
「そうかもしれない。でも、それって――」
私の疑問に、リーゼは即座に応えた。
「はい。黒縄との関連は見つかりませんでした。なんといってもそこに記されているのはリネーハの風景を記した日記のような随筆文――ただの感想なのですから。しかし、そこに何か秘密があるのかもしれません。でなければ、パラレルスにこれほど惨い死に様を用意するはずはない」
彼女の言葉には、初めて聞く怒気の語調が籠っていた。
「わかった。この本も、一応持って帰ろう」
私は慎重に、血だまりから本を引き出す。他のページは、案の定、血塗られてしまっており読めないが、重要なのは内容ではない。この本の内容が重要なのか、はたまたこの本自体が重要なのか、あるいは両方か――。
「帰るよ。ここまで糸を辿ってしまったから、願いのストックを使う」
もう、ここには用がなくなってしまった。ここで帰るのは、これだけで帰るのは間違いじゃないかと感情が暴れ出す。ああ、うるさい、そんなことは分かってる――分かってるけども、私はこの天秤をこちらに傾けないといけないんだ――。
願いを燃やすと、周囲は煙で満ち始める。卑劣な罠も、哀れな少女も、全てが段々と見えなくなってくる。見えなくなっていく景色が――もはや消えない事実として染み付いてしまいそうで――そう思えば思うほど、口が勝手に動いた。
「絶対に、絶対に、また来るからね。あのクソッタレ共をぶっ飛ばすまで、待ってて。パーウェルスと、必ず迎えに来るよ。パラ」
景色は煙に包まれ、二転三転と、ぐるぐる渦巻くような感覚に襲われる。
目の前の景色が暗く消えていく中、赤の雫はもう金糸を伝わなかった。