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第五十二話

 地下道を進んでいった先、無機質な下水道からようやく文化的な様子になった道は、装飾が施されていた。絵の感じを見るに、信仰に関連するものだろう。しかし、それが結局何を信仰しているのかは、よく分からなかった。

 地下道と街を繋げる門の前には衛兵が構えており、ナナはそれを石像と見間違えて、観光気分で近づき、

「何者だ」

「ひゃあ! ごめんなさい、ごめんなさい!」

 威圧されたナナは、情けない平謝りをしながら、私の背に隠れた。

「彼女たちは旅人です。ルオーメの名を口にして、黒縄に襲われているところを救出しました」

 黒縄とは、あの黒いうねうねした化け物の名前だろうか。

 カランドの説明に、衛兵は表情を変えなかったが、訝しげに聞いた。

「信頼できますか、その者たちは」

 衛兵の視線が、悪事を探すランタンの灯りのように、私の傍を彷徨う。特に注目されていないナナが、さらに身体を縮こませた。

「彼女、なにやら特別な力を持っているようなんです。これを、糸の先を紡げる好機と取るか、それとも糸が切れてしまうことを恐れて追い返すか」

 彼が振り向き、そうですよね、と言いたげに目を細める。私は肩を竦めた。

「一介の旅人が、ご期待に沿えるかは分からないけどね」

 衛兵が私を睨む。

「一介の旅人が、なぜルオーメの名を知っている?」

「この本にリネーハの歴史が書かれてた。ルオーメの名はそこから」

 私はナナからリーゼを取り上げて、門番へと見せた。

「本遣いが荒いですね、私は優秀なので構いませんけれども」

 私たちにしか聞こえないからとリーゼは大口を叩いた。門番はリーゼを受け取ると、数度、目を左から右へと動かし、やがてゆっくりと閉じた。

「これを、どこで?」

「リアの街だよ。カランド、君の故郷でもあるよね?」

 いきなり話の矛先が向いて驚いたのか、カランドは咳止めにも関わらずむせた。

「それを――どうして?」

「話せば長くなる。でもきっと実りのある話だよ。どう? 通す気になった?」

 衛兵は、耳に掌を押し当てた。

「『糸が揺れるは音のため、糸を通すは我のため』」

 詠唱が終わっても、特に大きな動きは見られない。しかし、目を凝らせば、きらりと光る糸が見えた。彼の中指の付け根あたりから、門の外へと続いているようだ。

「あれが噂の『糸紡』の術か」

「見るのは初めてですか――げほっ、んんっ」

 カランドはまだむせた唾が喉に残っているらしい。しきりに咳払いを繰り返している。

「『糸紡』の術が、かなり幅広いものだっていうことは聞いたよ。あれは何してるの?」

「メルンさんは糸聞き花って知ってるかい?」

 聞き慣れない単語に、私は首を傾げた。

「知らない。糸は治療の道具でしか使ったことないよ」

「そうか、他の街にはないのかな。遠くの人と、糸を通じて話すことができるっていうものです。特に公共の建物とかに設置されていることが多いですね。例えば、医院と草屋とを繋げると、わざわざ人を寄こさなくても、どんな薬草があるかが分かる、みたいな使われ方をしています」

 へえ、と思わず感心の声が漏れた。

「ローデス――私の医学の先生が時折嘆いていたんだよね。ハウゼの街以外では薬草の品揃えがよくないことが多いから、あちこちの店を回らなきゃいけなかったんだと。それも偉い先生であるローデス本人が。曰く、薬草を指定するのは簡単だが、その代わりを指定するのは難儀なことで、それくらいなら自分で探しに行ったほうが早いと」

「他の街にも糸聞き花があれば、きっと楽だったんでしょうけど」

「そうだね。それで、つまり彼が今やってるあれは――」

「はい、糸紡の術で似たようなことをしているんです」

 彼が、ほら、と指を差すと、衛兵は先ほど耳に当てていた手を口元に移し、何かを話しているようだった。話し終えると、また耳へと戻し、時折頷く素振りを見せている。

「許可が下りた」

 衛兵がそう言ったのは、たったの二、三度のやり取りを終えた後だった。衛兵はゆっくりと門を開くと、その脇で、また石像のように動かなくなってしまった。

「ありがとね」

 礼を言うと、ほんの少しだけ、彼は頷いた。私が土か木から生まれたのなら、この衛兵は石から生まれたタイプの人間だろう。関節の動きがすこぶる悪い。これはナナが勘違いするのも仕方ないだろう。

 地下道を抜けた先に広がっていたのは、リネーハの街とは思えないほど、上品な街だった。直線的に整備された道に、追随する建物たち。あちこちで見かけた派手な看板は見当たらず、どこも落ち着いた店札を掲げているのみだ。

「皆さんには一度、パーウェルスさんに会ってもらいます」

「それ誰?」

 今にも観光に走り出しそうなナナを引っ掴まえながら聞く。

「ここの地域の長――とでも言いましょうか。街長のようなものです」

「なるほど、話が早いね。もしかしたら今日中に帰れるかもしれない」

 すると、カランドはふっと目線を下げた。

 軽口のつもりだったが、私がここから帰るのはかなり難しいことのようだ。

「ガンファに報告しなくちゃいけないことが増えそうだ」

 カランドに連れられながら、街を見て回る。やはりそうだ。活気がない。リネーハの街壁近くの商店通りでは、多くの人があっちの店からこっちの店へ、蝶が花に目移りするように飛び回っていたというのに、こちらの商店通りは住宅地と思えるほど静かだ。

「なんか――イェルククみたいです」

「それよりも静かじゃない? イェルククの皆は夕方どんちゃん騒ぎだったじゃん」

「あれはメルンさんが来たからですよ」

「確かに。でも、根本的に違う気がする。なんというか――会話がないんだ」

 日常に交流を挟み、生活に他人が組み込まれていく。それが街というものだと理解していた。しかし、ここは耳を澄ましても話し声は聞こえず、それどころか見渡しても人が一人二人ぽつぽつと居るだけ。だが、生活の音は確かに聞こえる不思議な街だ。人がいる実感が湧かない。けれど不思議と寂しい感じもない。

「これが、リネーハの本来の姿です」

 カランドは、商店の一つ一つを指しながら話した。

「あの店も、あの店も、その中では職人達が自分の仕事を全うしているのです」

 窓からちらりと見えるその姿は、荘厳なものに思えた。その動き、所作はきっと独自に生み出されたものだ。職人がただ一つ信じる道のために進んだ結果だ。それは行き過ぎれば誰にも理解されない、外界と隔絶された雰囲気を醸す。

 過去の商人が、彼らを神職のように扱った理由にも合点がいく。

「リネーハはもともと職人の街だと聞いた。ここに住んでいるのは、末裔ってこと?」

「そうなります。リネーハの中核にして、リネーハに欠かせない人々。この街が高い技術力を持ちながら、長い間、他の街に知られていなかったのは、彼らの頑固さ故ですよ」

「にしても、静かじゃない? ここに来るまでの間に、鍛冶の街に立ち寄ったことがあるけど、こだわりの強い彼らからはかなり賑やかな印象を受けた」

「リネーハの職人というのは、自らのみを第一に信じます。つまり他者からの干渉を何よりも嫌うのです。そんな気難しさのせいで、リネーハにやってきた移民は大層苦労したでしょうね。なにせ商売のために動いちゃくれない。自分の矜持のために動くんですから」

 医者も同じような話だが、患者という相手がいる以上、完全な孤独になるわけにはいかない。それが逆に、重く、辛いところでもあるのだろうが。

「さて、ここです。パーウェルスさんがいらっしゃるのは」

「えっ」

 ナナは思わず声を上げた。

 カランドが紹介したそこは、正に商店通りの一角に過ぎない木造の店だった。変わらず地味で、大きさも他と変わらず、何ならそのパーウェルスと思しき女性自身も、糸車を回して、職に精を出していたのだ。

「パーウェルスさんは、今も変わらぬリネーハの職人であり、ここ、ルオーメにおける長でもあります」

「待って、ルオーメってことは――」

 ドアがバタンと閉まる音がした。先ほどまで糸車を回していた女性は、すでに窓の中にはおらず、いつの間にか、私たちの前で恭しい礼を披露していた。

「リネーハの陸の孤島――ルオーメへようこそ。歓迎しよう、旅人のご両人」

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