だいぶ、気分良く話してくれる人だ。面倒だから、このままリネーハのことも聞こう。
「そういえば、ちょっと話逸れてしまうんですけど、ちょっとリネーハのことを調べたくて――歴史とか興味あるんですけど、その辺りに詳しい方をご存知ないでしょうか? できればルオーメ家について――」
その言葉を口にした瞬間、私はため息をついた。
「まずい」
その状況を頭が理解するより身体と口が先に動いた。私は手に持っていたリーゼをナナの方へと投げ飛ばし、叫ぶ。
「ナナ、離れて!」
動きの気配を感じて、私は身体を大きく反らしながら、後ろへと飛んだ。地面と平行に空気を裂いていく黒い刃、その側面が私の眼前を一瞬覆った。斬撃を躱した勢いのまま、ぐるりと世界が一周する。こういう時、体術を習っておいてよかったと心から思う。
「な、なんですか、あれ――」
目の前にいたはずの女性は消え、そこには黒い紐を何本も連ねてできた人型の何かがいた。その胸の辺りには紅く輝く結晶のようなものが見える。その手にはおおよそバランスが取れているとは思えない巨大な刃をした剣を握っていた。
「分からないけど、ルオーメ家のことはかなりご法度みたい――ただの歴史じゃん」
悪態を吐きながら、私はマスクを着け、願いの欠片をナナから引っこ抜いた。
「あうっ!?」
ナナから。
「ナナが臆病でいてくれてほんと助かるよ」
――逃げたい、逃げたい、逃げたい!
この情けない声、この必死さが、願いを強くする。
「最高のパートナーだって、そう思わない?」
歯を見せて笑ってやると、ナナは泣きそうな顔で叫んだ。
「いいから早く! 願いを叶えてください!」
「はいはい、待ってね」
煙管に願いを落とし、火を落とす。燃え盛る炎は導、立ち込める煙は本質――戯言であり、真言。燃えた願いは煙と昇り、煙と落ち、私達の身体に纏わりついた。
「行けますね! これで!」
「さ、逃げるよ」
走り出す足はかなり軽いが、驚いたのは黒紐の人間の方だ。それは形を崩すと、ちょうど槍投げのように真っ直ぐな紐になって、出鱈目な速度で私達を追い越していった。私はすぐに足を止められたが――
「嘘でしょ、冗談きついなあ――」
ナナは願いの速度にも走ることにも慣れていない。ナナがようやく止まった先では、すでに紐が再び人型へと変わっていたところだった。ぬらりとナナを覗き込むその動きにナナは臆病ゆえに動けなくなっている。
「ナナが臆病なのってほんと大変だなあ」
ぼやきながら、再び煙管に火を落とす。そして、それを咥えたまま跳躍し、黒紐の化物に飛び蹴りを食らわした。ゴツッという固い衝撃が足の甲に伝わる。
「『当たれ』って願いのストック、あんま使いたくないんだけど――どうよ、筋力増強に体重を乗せて、さらに願いまで足した必中お祈りキックは」
怪物は再び紐に解けながら、しかし、後ろへと吹き飛んでいく。
「ほら、逃げるよ、ナナ」
足のすくんだナナを抱えあげると、路地へと走り込む。あの蹴りは普通の人間に食らわしたら顎が吹き飛んで二度と物が噛めなくなるくらいの威力だ。だが、予想通りというかなんというか、私の方がダメージが大きい。足の甲の骨が折れてなければいいんだけれども、とにかく、さっきのふっとばしが奴に対しての今の限界だ。あいつの弱点が分かるまで、一旦隠れるしかない。
何度か角を曲がった辺りで、ナナに静かにするようジェスチャーをする。彼女は両手を口で押さえて、もはや息が漏れる音すら許さなかった。街の路地で逃走ごっこをするのはこれが二回目だ。今回は、血を流してないからそう簡単には見つからないはず――。
「メルン! 来てる!」
頭の中で声が響く。リーゼだ。路地に目をやると、蛇のように紐が動き回り、こちらへと向かってきている。
「嘘でしょ、冗談きつすぎるって!」
私は再びナナを抱えあげ、飛び上がろうとした――その時、
「動かないで!」
聞き覚えのある声に私は静止した。
「『リネーハにおける治安についての覚書、五十の七。その秘匿を成せ』」
黒い紐が這い寄ってくる――ナナは腕の中で震えてもう漏らしそうなくらいだ。
だが、紐は――私の爪先を掠めて、そのまま通りすぎていった。
私は数瞬そのまま止めていた息をようやく吐き出すことができた。
「助かったよ、カランド」
薄い色をした痩躯の青年、カランドは私の感謝に咳をしながら答えた。
「皆さん、こちらに。こうなってはこの地区は危険ですから。移動しましょう。『リネーハにおける治安についての覚書、五十の八。その秘匿を解け』」
彼が術を行使すると、足元のタイルがみるみる消えていき、地下道への梯子が現れた。
地下道は、私の苦手な堅苦しい雰囲気が溢れていた。リアの街の何倍も厳重な『治安』の術だ。治安官よりはマシかもしれないけれど、あれは話せる分、あっちの方がまだいいのかもしれない。
文句を心の底に押し込めながら歩いている途中もカランドの咳は止まない。その喘鳴もこの地下道では、獣の唸り声のように気味悪く響いていく。私は腰の薬剤の中から一つ探し出した。
「はい、これ。あんたに渡す予定だった薬。ほんとは病院でゆっくり治してほしかったけど、今はそうも言ってられなさそうだから」
「あ、ありがとうございます――」
カランドはそれを一息に飲み干し、嗚咽した。
「まっず――」
「味の調整の暇なかったんだよね。昨日からいろいろありすぎて」
「いえ、いえ――助かります。本当に――」
半ば恨み節に聞こえるのは気のせいだろうか。
「ところで、よくアレから逃れられましたね。僕はメルンさんたちの無残な死体を見るかもしれないとの覚悟を決めてたんですけど」
「普通に死ぬかと思ったよ。でも、あの殺意は強烈すぎて、身体が勝手に動いてた」
「ああ――今のリネーハではなぜかご法度なんです、ルオーメ家のこと」
「みたいだね。これからはその街の人が喋った言葉だけで会話しようと思ってる」
私は言いながら、周りを見渡した。当然だが、あの化物はここまでは追ってこない。
「外のリネーハの街で言わなければ平気です。ここは『治安』の術を通してますから」
「じゃあ、ここは一旦安全ってことでいい?」
その言葉にカランドは強く頷く。足を止めると、カランドは私に向き直る。
「聞きたいことはたくさんある。なんでルオーメ家がご法度なのか、なんでリアの街にだけ新月病が溢れているのか、この地下道はどこに向かっているのか――その辺りをすぐに説明できないのはよく分かるから、一つずつ説明してもらうとして――」
私は右足の靴を脱ぎ捨て、その場に屈みこんだ。
「ちょっとストップしてもいい? さっきの蹴りで、マジで足がやばい」
「えっ、あっ、気づかずにすみません! 医者を連れてきましょうか? それとも担架とか要りますか?」
「いや、私より腕がいい医者いないから――私は旅人なんだけどね」
あたふたとするカランドをよそに、私は足の治療を始めた。
「なに、ぼーっと見てるの? ナナは手伝う」
すると、小鹿のようにぷるぷると震えていたナナは急に背筋を正し、謎の敬礼をする。
「あっ、はっ、はい! すみません!」
「声でかい、うるさい、聞こえる」
薬草を探り、緊急で使えるものを見繕いながら、さっきの女性のことを考える。
急激に化け物へと変化したことや、明らかな殺意を向けてきたこと。それ自体は、まだ自分の中では納得のいく事象だった。人間というのは悪意の塊であればあるほど、あの醜い土塊の姿に見える。それは今でも変わらないことだ。
だけれど、そんな人を見てきたから、変貌してしまった人も見たから引っかかる。
――あの反応は、人として妙だった。でも、願いの形は確かに人だった。
「願いが、全くの一つしか存在しないなんてこと、あり得るのか?」
イェルククよりも、ややこしくならないでほしい。