リネーハの街には、何の問題もなく入ることができた。私が薬の配布や医者の手配を行っていたことは、街壁近くの地域ではかなり広まっていたようで、それを理由にするとすんなりと入れてもらうことができた。また、しばらく滞在するかもしれない旨を伝えると門番は快くそれを受け入れてくれた。
「こういうのは逆に不安だなあ」
「何がですか?」
街の中の大通り、ナナは楽しくて仕方がないという様子で歩いている。
「気楽だねえ、ナナ。物が分かるようになったっていうのは勘違いだったかも」
「な、私だって成長してますよ。メルンさんの懸念は分かります!」
「何の懸念?」
ナナは一度くるりと回って、胸を張る。リーゼの喋りがやかましいとしたら、ナナのやかましいところはこういう一挙手一投足にあるだろう。ただ、こうして姿を改めて見ると会った時からは随分と垢抜けたな、という印象だ。
「聞いてます!?」
垢抜けた幼い表情が、顔面近くまで突進してくる。私は顔だけ逸らした。
「聞いてる聞いてる。で、なに?」
「聞いてないじゃないですか! もう一回言いますからちゃんと聞いててくださいね。メルンさんはこう考えてるんですよね? 上手く行きすぎているから、この先で何か問題が起こるんじゃないかって! でも問題ないですよ、メルンさん! だってメルンさんの不幸はもう断ち切られ――」
「はい、バカ。黙って」
「んんんん――!」
あまりのバカらしさに思わず口元を抑えてしまった。ナナの。
「いいかな。イェルククみたいな小さな街ならともかく、部外者をこうもすんなり受け入れるもんじゃないって話だよ。これじゃちょっと偽善ぶったら悪事働けちゃうじゃん」
「ぷはっ――それだけ『治安』に自信があるってことじゃないですか?」
「ところがどっこい――治安官が全然いないの。それっておかしくない? リーゼ、これ理由分かる? 治安官全然見かけない理由」
「もう少し街を見せてほしいです」
「ほい」
小脇に抱えたリーゼを軽く胸元に持ってくると、彼女は悩ましげに唸った。
「記録には特に該当するものはないですね。歴史書のどの記述と比較してみても、予想という予想ができるほどではないです」
「ま、そうだよね。だから部外者としては心配ってわけ」
そうですか、とナナは依然として楽観的な声を上げる。
「でも、もしもがあってもメルンさん強いからどうにでもなるじゃないですか」
「まあ、願いのストックと薬剤のストックは取ってあるけど」
腰元の細身のガラス瓶や薬草ケースを確かめていると、リーゼが不思議そうな声――もとい念を送ってくる。
「薬剤は分かりますが、願いってストックできるんですか?」
「あー、うん。正しく言えば、他者の強い思いの籠った物体、かなあ。私の力って願いを叶えるのに向いてるってだけで、本来やってることは、本質を抽出して増幅することなんだよね。つまり、トラウマじみた事故から想いし日の感動まで――それの本質がそうであるなら、命だって再現できるんじゃないかな。やったことはないけど」
リーゼはうーんと興味深そうに唸る。
「術というよりは、『浮雲』の業に似ている気はしますね」
私はその言葉を聞いて、固まった。鼓動がおかしな拍動を始める。ナナの方を見ると、彼女も目を丸くして、腕の中のリーゼのことを見ていた。
「待って、リーゼ。『浮雲』についての記述が――リネーハにはあるの?」
「ええ、間違いなく。その反応から察するに、『浮雲』に関する書籍は私と同じくらい稀有なのですね。どうしましょうか、この退屈な移動時間を、この世界でも稀少な物語で埋めるっていうのは」
私は、少し、いやしばらく考えてから、首を振った。
「やめておこう。それはこの件が片付いてから――せめて、カランドに会ってからだ」
昨日、コーレウにもらったメモに従いながら、大通りから少し離れたカランドの家の近所へと向かう。彼の家の周りは住宅地で、商店などが構えられていない故か、リネーハにしては静かな土地という印象を受ける。
「さて、聞き込みを先にやっちゃおう。ここら辺で暴れてるって情報があったら楽なんだけど――昨日見た感じは特に問題なかったんだよなあ」
「あまり期待はせずに、ですね」
「ついでにリネーハの話も聞いていこう。新月病のヒントになりかもしれないし、もしかしたらリーゼの起源を探れるかもしれない」
とりあえず目についた女性に声を掛けてみる。道をゆったり歩いているし、社交性はそこそこ高いように感じる。とりあえず聞いてみるには丁度いい相手だ。
「すみません」
「あ、はい、なんでしょう――あっ、もしかして――」
「はい。ここら辺の人を治療して回っている旅人です」
「わ、ほんとにいらっしゃったんですね。カランドさんも昨日、診てもらったって」
どうやら掴みは上々らしい。しかも話の流れもかなり都合がいい。ここは乗っかろう。
「ええ、そうです。まさにカランドさんを訪ねるところだったんですけど――実は少しお聞きしたいことがありまして」
わざと真剣なトーンを作ってみせると、彼女は少し声を低くした。
「なんでしょうか――」
「ああ、すみません。そんな大きな問題ではないんです。ただ、カランドさんの治療に必要なことでして――何かカランドさんについて気づくこととかありませんか? 例えば少し身体が左寄りに傾いているだとか、身体をよくぶつけているだとか――この辺りって本人は意外と気づかないものなんです」
ああ、なるほど、と女性は少し安堵した表情を見せた。
「うーん、そうですね。やっぱり咳が特に、ですけど、それ以外で気になったことはないですね。すみません、お力になれなくて」
「いえ、ありがとうございます。目立った症状がない、というのも重要な情報ですので」
「そうですか、よかったです」