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第四十三話

 ジャラジャラだかポンポコだかチリンチリンだか、よく分からない音を鳴らしながら私たちはリアの街に戻ってきた。道中に人がいたわけじゃないけれど、それでもメルンさんから響いてくる不審な音のせいですごく恥ずかしい思いをした。

 闇夜に染まったリアの街は、湖畔に深く沈んだ枯木のように静かで、家屋に灯りはなかった。その代わりに、リアの街と同じくらいに広がっている医猟団のテントからは光が零れていて、その獰猛な本性とは裏腹に、森の中の木漏れ日を思わせた。

「あれ、灯りついてる」

 メルンさんが指差した先、私達の寝床からも、穏やかな光が見えた。きっとあのガンファとかいう人のものだ。何か悪い事でもしてるんじゃなかろうか。

「説明したでしょ、ナナ。ガンファはいい奴だよ。頭が回る癖に、お節介を焼いちゃうやつだ。それに、子供好きな奴だよ」

「またそうやって――察するのやめてほしいんですけど」

 私が不満を述べると、メルンさんはやれやれといった顔をした。

「ナナ、私が察さないとそれはそれで怒るでしょ。ロマンスのヒロインみたいだ」

「そういうところですよ! そのデリカシーのなさ!」

「うーん、確かに。ローデスもこんなんだったし、もしかしたら大人になるっていうのはデリカシーを失うことなのかもしれないね」

 メルンさんは、そんなことをぶつくさとぼやいた。私が得てほしいのは慧眼ではなくて危機感だ。そもそもくだらなさすぎて、慧眼ですらないけれど。そう思うと、呆れと諦めと、でも諦めたら負けな感じがして、否定の意味でメルンさんの背中を両手で叩いた。軽く触れるその上着からは固い感触が返ってきて、チャラチャラと妙な音を立てる。私は顔がぶわりと熱くなって、メルンさんへの抗議の拳を、数度叩きつける程度で引っ込めた。

「――子供好きって言いました? 本当に?」

「ほんとだよ。あいつ、元々、子供が飲みやすい薬の研究してたから。それに加えて食事療法もやってたよ。子供は薬を飲むのを嫌がるから、って」

「全然ピンと来ないんですけど」

 あの顔であの表情を見ちゃうとね、とメルンさんは楽しそうに笑う。

「ちなみに私も子供は好き」

「メルンさんのそれは嘘ですね。大嘘つきです。反省してください。子供の扱いが上手いだけの人のことは子供好きとは呼びません」

「ナナ、遠慮なくなったね――大人になったんだ――」

「まだ会ってから一年しか経ってないんですけど」

 わざとらしくべそをかくその手を引っ掴んで、宿へと向かう。ずっと手綱を握ってたせいか、風に晒されたその滑らかな手はかなり冷えていた。

「この辺りは冷えますね――先に湯浴みしてください。私は後でいいです」

「ん――ありがと」

 宿のドアを開けると、いい香りが漂ってきた。香ばしいような刺激的な匂いに、私の胃袋はぎゅっと掴まれて、お腹の奥からぐううと音がした。鍋を火にかけていたガンファさんがこちらを見た。

「ようやく戻ってきたか。お前のことだから心配はしていなかったが。君は随分と腹が減っているようだな。先に夕飯を摂るといい。空腹のままの湯浴みは推奨できないからな」

「えっ、あっ、はい――」

 正直、二言三言文句をぶつけてやろうと思っていたけれども、自分の腹の虫と彼の見たことのない柔らかい笑みに出鼻をくじかれてしまった。メルンさんはいつも通りの様子で上着をかけると、その身体から騒々しい音を立てながら道具を外し、そのまま風呂場へと消えていった。かと思うと、一瞬、顔だけひょこりと出し、

「ほらね」

 とだけ口を動かして消えていった。むかつく。

「怒りと飢えの腹の虫は同じこと。食べれば全て治まる。ほら、手を洗って。長旅だっただろう」

「は、はい――」

 私はローフェさんに言いつけられたときのように身体が強張ったが、あまり嫌な感じはしなかった。最初会った時とは大違いだ。どぎまぎしながら席に着くと、肉と野菜を混ぜ込んだのだろう、球のように丸い料理が出された。そこには茶色いソースのようなものがかかっており、先ほど胃袋を揺らした香りはここから強く香っていた。

「い、いただきます――」

「ああ」

 すでにテーブルに並べられていたスプーンでソースを少し味見すると、見た目と香りよりも深い味がした。舌に載せればすぐに来るような味ではなく、藁を燃やすと、じわじわと形を変えるように、ゆっくりと。用意されたパンを一緒に食べると丁度いい塩気のソースと小麦の甘さが組み合わさって、もう直接パンをこのソースに浸してたべたくなった。

「別に構わない。だが、よく噛んでくれ」

「あ、えっと――」

 そうだった。この人もハウゼの医者の人だ。心を簡単に読んでくるのは、神授医クラスからだと聞いていたけど、ハウゼの人であれば、誰でも分かってしまうくらいの表情を今の私はしていたのだろう。そう思うと、私の顔はどんどん熱くなっていった。道中の比じゃないくらい。

 パンから目線を上げ、彼の様子を伺うと、彼は自らの料理に目線を落とし、黙々と料理を口に運んでいた。よかった、全部投げ出して風呂に飛び込むところだった。

「あ、あの――」

「ん? どうした?」

「え、えっと――腹の虫がどうとかって、ハウゼのことわざなんですか? メルンさんもよく言ってたりして、どうなのかなーって気になっちゃって」

 メルンさんのことを聞きたかったのに、やっぱり緊張が抜けなくて変なことを聞いてしまった。なんでもない、と言って取り消したいけれども、その後にやってくる沈黙に耐えられる気がしない。ガンファさんは、パンを手元で千切りながら答える。

「あれは、俺しか言ってない――つまり俺の持論だな」

「えっ、そうなんですか? 私てっきり――」

 意外な答えに、声を上げると、ガンファさんは頷いた。

「メルンから話は聞いたか? 俺は元々、食事による治療を研究していたんだ。きっかけは入院している患者の元気のなさからだな。動きを制限された人間というのは、心が弱っていき、いずれ衰弱してしまうことが多い。俺のいた医院には子供が多かったから、そういった側面を殊強く感じたんだ」

 パンを口に運ぶ彼に釣られて、私も料理を口に運ぶ。すごくおいしいけれど、そっちに集中している場合じゃない。私はおいしいという感情と戦いながら、ガンファさんの話を聞く姿勢を取った。すごくおいしい。

「蝶を、知っているか。あれらは奔放に、安穏とした具合で高くもない空を飛び回る。かのルダは子供を蝶と例えたことがある。俺も同意だ。蝶は、自由奔放に見えて、飛び回る花のルートがあり、それは子供も同様なことだ」

 目線を落としていた彼が、ふとこちらに目を合わせる。私はどきっとした。

「蝶を、手で捕まえたことはあるか?」

「えっ――と、捕まえようとしたことはありますけれど」

「まあ、難しいよな。俺も捕まえるのに成功したことはない。だが、看病をしたことがある。羽根の欠けた奴でな。俺は、そいつが回復するまで籠の中で蜜を与え続けたんだ」

「ハウゼの人って虫も治療するんですか――?」

「いいや、まさか」

 ガンファさんは笑いながら首を振ったけど、そこから、少し切ない雰囲気がした。

「俺が、幼い頃の話だよ。子供のよくある――無力な話だ」

「じゃあ――蝶は――」

「衰弱してしまった。あの時の栄養の配分は一切間違えていなかった。だが、俺は過剰だったんだ。蝶の健康には、花畑を飛び回るのに似た幸福が必要だったのだと――そう、後から気づいた。戯言だが、真言だな」

「そう、ですか――。それで食事療法を?」

「ああ。足の折れた子供が、ただでさえ飛び回るという幸福を失っている。そこに苦い薬や痛い注射。それに栄養だけを考えられたまずい食事が出たら、どうなると思う。軽い病気であれば問題はないさ。だが、何年も病と戦わなければならないのであれば、その子供はどうなると思う」

「――それは、わかります」

 私は気づいたら、お腹を擦っていた。指先に触れるあの麦の穂を、今も覚えている。

「君は、不幸に見舞われた。だが、幸運にも見舞われた。人生は常々そんなものだ。不幸は打ち消すことはできないが、幸運があれば悪くないと思える日がある。まだ生きててもいいと思う日がある。逆に死んでしまいたいと思う日もある。医者にできるのは、そのための幸運をせっせと運んでやるくらいのものだ」

 神授医なんかじゃなくても、ガンファさんの言葉には背負ったものがあると、そうはっきりとわかった。わからなかったとして、その後の言葉を続けたがらないその姿を見たら、誰だって察せる。

 彼が話し終えてしばらくの沈黙の中、私は一口だけパンを頬張ってから口を開いた。

「そういえば、戯言だけど真言だ、って――これもガンファさんが?」

 正直、そんなに気にしていることでもない。だけれど、この空気を放っておけるほど、私は大人じゃない。問いを投げかけると、ガンファさんは笑いながら首を振った。

「メルンの師であり、母親でもあるローデスの言葉だ。メルンがこの言葉を多用しているのであれば、それは彼女の口癖だったからだろう」

「ローデスさんってすごい医者の方なんですよね」

「ああ。現状、ハウゼでは一番実力のある神授医だ。いつも座して、ずっと煙を漂わせているが、唐突に席を立つと治療を終えている、といった有様だ。あのペパーミントの煙には何か特別な力があるのではないか、と、俺がいた頃にはよくわからんミントの嗜好品が流行ったものだ」

「めちゃくちゃ有名人じゃないですか。私、メルンさんが当たり前のように話すからてっきり、ハウゼでは割と普通の人なのかと――」

「まあ、メルンは名声におおよそ興味がないからな。でなければ、あの立場で旅に出ることもないだろう。それに――」

「医者を名乗るのを拒むこともなかった、ですかね?」

 ガンファさんは、私を一瞥してから、深く頷いた。

「ガンファさん――どうして、メルンさんは、自分のことを医者じゃないって、あんなに頑なに言うんですか? 今日だって遅くなったのは、リネーハの人たちに薬を配ったり診断を書いてあげたりしてたからで――」

「あいつは、まあ、そうだよな――」

 ガンファさんはため息を吐きながら、さっきのとはまた違う、悲しげな顔をした。

「一つ、昔話をしよう。あいつは過去を隠すわけじゃないが、あれに関しては、自分の口から語るのをどうにも嫌がる。言葉にしたくないのだ。だから、またとない機会だな。俺が話そう、あいつの代わりに」

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