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第三十九話

 馬車をからからと揺らしながら、今日も空を見上げている。この頃に取り付けた簡素な屋根も、それに合わせてがたがたと不安な音を鳴らしているので、今一度、様子を見た方がいいだろうか。

 荷台には、本に目を凝らしているナナがいた。出会った頃にはボサボサだった茶髪は、滑らかに輝き、色の濃い琥珀を思わせる。おそらく身体が新月病の影響を受けなくなったからか、それとも私とその生命を共有しているからか、その両方か。まあ、良い影響なのは間違いない。

「メルンさん、次の街まではどのくらいでしょう?」

「もう少しかな。人の気配がする。それなりな街かな――この辺は小規模な街ばかりだと聞いていたけれども」

「そこまでわかるんですね、私には全然です」

「いやまあ、これはわかるほうがおかしいからね」

 ナナは馬車に揺られても、今や平然としている。私と目が合うと微笑んだ。

「どうしたんですか?」

「いや、馬車にも大分慣れたじゃないか。旅を始めたばかりの時は、何回も休憩を挟んだりしたけど、今や一回の休憩もなく、こうしてずっと馬車に揺られても平気そうだ」

「そりゃそうですよ。えっと――どのくらい旅してますっけ?」

「日にちは正しく数えてないけど、季節は一周したよ」

「じゃあ一年ってところですか。そりゃ慣れますよ。というか慣れないと厳しいですし」

「そうだね。馬車をやめようと強請っていたころが懐かしいよ」

「もう、そうやってすぐからかう」

 そう言って、彼女はまた本とにらめっこを始める。眉根に皺を寄せて、睨みつけるように一字一字を追う姿は、本当ににらみ合いをしているようにも思える。文字を覚えたばかりで仕方がないのだろうが、ちょっと可笑しい光景だ。

「馬車での本の読み過ぎには気をつけなよ」

「それももう平気ですー」

 伸びた語尾でいなす辺り、年頃の少女といった具合で、私はくすりと笑った。

 道中、すでに予感していた人の気配、その正体と出会うのは思ったよりも早かった。だが、予想していた街とは違う。門もないような小さな街で、民家の数もあまりに少ない。街というよりは、人が寄せ集まって自然にできた共同体、という表現が正しいだろう。

 馬車を街の眼前に止めて、私は辺りを見渡してみた。

 人の数は、私が感じていたのと相違ない。依然として多い。目に留まったのは、街から少しだけ離れた位置に設営されたテント。私はその隣に建てられている見覚えのある旗を見て、ため息を吐いた。

「気まずいな。先達に会うのはいいんだけど、それ以外はな」

「どうしたんですか?」

 私の声を聞いてか、ナナが荷台から顔を出す。

「わ、小さな街ですね――でも、あんな風に凝った作りの旗、こういう街じゃ珍しくないですか。鷹の模様、かな?」

「物がよく分かるようになったね、ナナ。あれはハウゼの『医猟団』の旗だよ」

「『医猟団』ってことは、ローデスさんの?」

「いや、ローデスが設立したのは『医師団』。定期的にハウゼに戻り、さらなる医療技術の発展のためのものだ。だけど、『医猟団』の奴らは血の気が多いんだ」

「えっ、お医者さまなんですよね――?」

「ああ、間違いなく医者だよ。それもかなり高いレベルの。でも彼らは、病気を心底恨んでいる。彼らの仕事はね――」

「全ての病気の駆逐の業を背負い、ハウゼには戻らぬ者。それが俺達だ」

 男が歩いてくる。その背格好は細身だが、鋭い目をしており、常に威圧的なオーラが滲んでいる。ナナは怯えてしまったのか、荷台に少し身を引いた。

「久しぶりだな、メルン。まさか旅先で会うとはな」

「あんたがいて、心の底から運がいいと思ったことはないよ、ガンファ」

 彼は、笑ってみせたが、それは彼の印象を余計に恐ろしくするだけだった。

「医者のくせに、相変わらず患者に寄り添えない奴だね、あんたは。ほら、年頃の少女があんなに怯えている」

「私もハウゼの医者だ。本来であれば、こうあるべきではない。だが、『天秤を投げた者』の前とあっては――多少の悪感情が入る余地もあるだろう」

「そりゃそうか。ま、いいよ。どっちにしろ仲良しごっこをするつもりはない。私は旅人であんたは医者だ。少し滞在して、必要なものを補給したら、この街に用はない」

「そうかい――。しかし、ここは新月病に冒された土地だ」

 新月病、その言葉を聞いて、自分の表情が強張るのが分かった。

「あんたがいるとして、それ、どうにかなるわけ?」

「どうにかするんだよ、メルン。『医猟団』は病がある限り、駆逐を続ける。ハウゼの教えの通り、何世代かけようとも、だ」

「その答え、今は解決の目処もない、って風に聞こえるけど」

「だとして、お前に何かできるのか?」

「そうだな、じゃあ取引をしよう、ガンファ。私にはこの足がある。普段は荷車を引いてるから遅くて仕方がないけど、荷車なしだったらこの馬は相当に早い」

「近くの街までは、すぐに行って帰ってこれると」

「ああ、そうそう疲れない馬だ。こいつを買った奴はさぞ儲けがよかったんだろうね」

 ガンファは少し考える素振りを見せた。

「見返りは俺達の物資か? それとも路銀か?」

「路銀の方。ただし、滞在してる分の食事、それと工具を少し分けてほしい」

「俺達にとっては安いものだ。成立だ、メルン」

「それじゃあ、『医猟団』にはあんたから説明しといて。私が行くと面倒でしょ」

「ああ、願ってもない」

 ガンファはすぐに背を向けると、ざくざくと爪先を突き刺すかのように、地面を蹴りながら歩く。しかし、ふとその足を止めると、こちらへ首だけ向けた。

「メルン。医者に戻る気はないか?」

 彼の目はまっすぐだが、私の瞳とは視線を合わせなかった。

「残念ながらそんな予定はないよ。人手不足なら他を当たって」

「そうか。それを聞いて安心した」

 ガンファの背中が、医猟団のテントの中に消えていくと、すっかり顔を隠していたナナがひょこっと顔を出した。

「あの人、メルンさんの知り合いなんですか?」

「ああ。学校では同期でね。それにしても話の分かる奴がいて助かった。運が良いよ」

「話の――あの、嫌味ったらしい人がですか?」

 ナナは憤慨した様子を見せる。

「『天秤を投げた者』って、どう考えても悪口ですよね!? 本当に話が分かるっていうなら、あんなこと言いませんよ! だって、メルンさんの先生は――」

「いや、ナナ。彼は本当に話の分かる奴だよ。それより、宿があるか探してみよう」

 そう宥めてはみたものの、彼女は不機嫌なまま、どかどかと音を立てて馬車から降りた。

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