馬車をからからと揺らしながら、今日も空を見上げている。この頃に取り付けた簡素な屋根も、それに合わせてがたがたと不安な音を鳴らしているので、今一度、様子を見た方がいいだろうか。
荷台には、本に目を凝らしているナナがいた。出会った頃にはボサボサだった茶髪は、滑らかに輝き、色の濃い琥珀を思わせる。おそらく身体が新月病の影響を受けなくなったからか、それとも私とその生命を共有しているからか、その両方か。まあ、良い影響なのは間違いない。
「メルンさん、次の街まではどのくらいでしょう?」
「もう少しかな。人の気配がする。それなりな街かな――この辺は小規模な街ばかりだと聞いていたけれども」
「そこまでわかるんですね、私には全然です」
「いやまあ、これはわかるほうがおかしいからね」
ナナは馬車に揺られても、今や平然としている。私と目が合うと微笑んだ。
「どうしたんですか?」
「いや、馬車にも大分慣れたじゃないか。旅を始めたばかりの時は、何回も休憩を挟んだりしたけど、今や一回の休憩もなく、こうしてずっと馬車に揺られても平気そうだ」
「そりゃそうですよ。えっと――どのくらい旅してますっけ?」
「日にちは正しく数えてないけど、季節は一周したよ」
「じゃあ一年ってところですか。そりゃ慣れますよ。というか慣れないと厳しいですし」
「そうだね。馬車をやめようと強請っていたころが懐かしいよ」
「もう、そうやってすぐからかう」
そう言って、彼女はまた本とにらめっこを始める。眉根に皺を寄せて、睨みつけるように一字一字を追う姿は、本当ににらみ合いをしているようにも思える。文字を覚えたばかりで仕方がないのだろうが、ちょっと可笑しい光景だ。
「馬車での本の読み過ぎには気をつけなよ」
「それももう平気ですー」
伸びた語尾でいなす辺り、年頃の少女といった具合で、私はくすりと笑った。
道中、すでに予感していた人の気配、その正体と出会うのは思ったよりも早かった。だが、予想していた街とは違う。門もないような小さな街で、民家の数もあまりに少ない。街というよりは、人が寄せ集まって自然にできた共同体、という表現が正しいだろう。
馬車を街の眼前に止めて、私は辺りを見渡してみた。
人の数は、私が感じていたのと相違ない。依然として多い。目に留まったのは、街から少しだけ離れた位置に設営されたテント。私はその隣に建てられている見覚えのある旗を見て、ため息を吐いた。
「気まずいな。先達に会うのはいいんだけど、それ以外はな」
「どうしたんですか?」
私の声を聞いてか、ナナが荷台から顔を出す。
「わ、小さな街ですね――でも、あんな風に凝った作りの旗、こういう街じゃ珍しくないですか。鷹の模様、かな?」
「物がよく分かるようになったね、ナナ。あれはハウゼの『医猟団』の旗だよ」
「『医猟団』ってことは、ローデスさんの?」
「いや、ローデスが設立したのは『医師団』。定期的にハウゼに戻り、さらなる医療技術の発展のためのものだ。だけど、『医猟団』の奴らは血の気が多いんだ」
「えっ、お医者さまなんですよね――?」
「ああ、間違いなく医者だよ。それもかなり高いレベルの。でも彼らは、病気を心底恨んでいる。彼らの仕事はね――」
「全ての病気の駆逐の業を背負い、ハウゼには戻らぬ者。それが俺達だ」
男が歩いてくる。その背格好は細身だが、鋭い目をしており、常に威圧的なオーラが滲んでいる。ナナは怯えてしまったのか、荷台に少し身を引いた。
「久しぶりだな、メルン。まさか旅先で会うとはな」
「あんたがいて、心の底から運がいいと思ったことはないよ、ガンファ」
彼は、笑ってみせたが、それは彼の印象を余計に恐ろしくするだけだった。
「医者のくせに、相変わらず患者に寄り添えない奴だね、あんたは。ほら、年頃の少女があんなに怯えている」
「私もハウゼの医者だ。本来であれば、こうあるべきではない。だが、『天秤を投げた者』の前とあっては――多少の悪感情が入る余地もあるだろう」
「そりゃそうか。ま、いいよ。どっちにしろ仲良しごっこをするつもりはない。私は旅人であんたは医者だ。少し滞在して、必要なものを補給したら、この街に用はない」
「そうかい――。しかし、ここは新月病に冒された土地だ」
新月病、その言葉を聞いて、自分の表情が強張るのが分かった。
「あんたがいるとして、それ、どうにかなるわけ?」
「どうにかするんだよ、メルン。『医猟団』は病がある限り、駆逐を続ける。ハウゼの教えの通り、何世代かけようとも、だ」
「その答え、今は解決の目処もない、って風に聞こえるけど」
「だとして、お前に何かできるのか?」
「そうだな、じゃあ取引をしよう、ガンファ。私にはこの足がある。普段は荷車を引いてるから遅くて仕方がないけど、荷車なしだったらこの馬は相当に早い」
「近くの街までは、すぐに行って帰ってこれると」
「ああ、そうそう疲れない馬だ。こいつを買った奴はさぞ儲けがよかったんだろうね」
ガンファは少し考える素振りを見せた。
「見返りは俺達の物資か? それとも路銀か?」
「路銀の方。ただし、滞在してる分の食事、それと工具を少し分けてほしい」
「俺達にとっては安いものだ。成立だ、メルン」
「それじゃあ、『医猟団』にはあんたから説明しといて。私が行くと面倒でしょ」
「ああ、願ってもない」
ガンファはすぐに背を向けると、ざくざくと爪先を突き刺すかのように、地面を蹴りながら歩く。しかし、ふとその足を止めると、こちらへ首だけ向けた。
「メルン。医者に戻る気はないか?」
彼の目はまっすぐだが、私の瞳とは視線を合わせなかった。
「残念ながらそんな予定はないよ。人手不足なら他を当たって」
「そうか。それを聞いて安心した」
ガンファの背中が、医猟団のテントの中に消えていくと、すっかり顔を隠していたナナがひょこっと顔を出した。
「あの人、メルンさんの知り合いなんですか?」
「ああ。学校では同期でね。それにしても話の分かる奴がいて助かった。運が良いよ」
「話の――あの、嫌味ったらしい人がですか?」
ナナは憤慨した様子を見せる。
「『天秤を投げた者』って、どう考えても悪口ですよね!? 本当に話が分かるっていうなら、あんなこと言いませんよ! だって、メルンさんの先生は――」
「いや、ナナ。彼は本当に話の分かる奴だよ。それより、宿があるか探してみよう」
そう宥めてはみたものの、彼女は不機嫌なまま、どかどかと音を立てて馬車から降りた。