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第三十八話

 私が目を覚ますと、とうに朝を迎えていた。

 何事もなかったかのような朝。森が焼け果てていなければ、あの甘い幻想に浸っていられたのだろうか。大きなものが失われたというのに、世界は安穏とした空を見せ、私達に日々の暮らしを強要する。

「安穏としていればいい。でも、今くらいは狂った空の方がいい」

 ルダのことを思い出す。彼が消えた日は、こんな風に呆気なくて、現実感がないくせにあまりに現実的だった。何を失っても、雲は流れる。その感覚を忘れたくて旅に出た。変わらないハウゼの街が苦しくて旅に出た。

「どこに行っても、こんな気持ちを、また思い出すんだ」

 人は失ったものを数えてしまう。何度も、何度も。

 数えない方がいいのに、見ない方がいいのに、それでも何度も数えてしまう。その行為には一種の中毒性があり、まさに毒であると思う。快よりは不快に近いのに、私はその毒に突き動かされ、イェルククの街を見下ろした。

 イェルククの街は見事に治安されていたが、その街道を歩く者はない。

 鐘が鳴り響いても、誰一人として、住民は起きてこない。

「あるべき姿――そりゃ、そうだよな」

 アンテレスの庇護を失ったイェルククの民は、その永い命に終止符を打ったのだ。誰一人の例外もなく――その生を終えたのだ。もはや住む人のない街、イェルククの血は、一夜にして滅んでなくなってしまった。

「だとしたって、もっと――」

「別れの時間が欲しかった、か」

 振り向くと、ローフェがそこには立っていた。黒い格式張った服は、所々が焦げ付いており、彼が身体を動かす度に、灰が揺り落ちた。握られた右手からは、小金色の実が覗いている。

「ローフェ、それ――」

「妻の、亡骸だ」

「そう――」

 返す言葉がなかった。彼はそれを察したのか、口を開く。

「治安の力で感知できるイェルククの民は、私とナナの二人のみだ」

「やっぱり、そうか。もしかしたら、と思った。けど、そんな上手いことはないか――」

「一部神の権能は、世界の法則を捻じ曲げることはあれど、破壊することはない。残念だが、これが最良の結果なんだよ、メルン」

 慰めのつもりなら一発殴ってやるところだ。だけど、彼はそんなことはしない。ただ事実を述べているに過ぎない。私も彼も、心に安く寄り添われることを求めてはなかった。

 民がいなくても、イェルククに残された建物たちは習慣によって、未だ動いている。だけれど、あの大きな水車はいずれ羽根が壊れて、水が流れるのに任せて腐り落ちるのだろう。イェルククを象徴する畑たちも荒れ果てて、街はただの草原と変わる。鐘塔は仕組みが錆びついて、夜の遅くに鐘を鳴らすようになってしまうだろう。

「民が消えることが分かってても、あんたは治安に全力を尽くした?」

「ああ」

 彼は間髪入れず答えた。

「彼らの、生きた歴史だ。その記憶の蓄積を、命と呼ばずして何と呼ぶ」

「そう、ならいいよ。私、ナナの様子を見てくるよ」

「ああ――あとは任せる」

 小屋に向かう途中、ローフェを振り向くと、彼はじっとイェルククを見つめていた。感情の読み取りにくい彼の目から、ありありと感情の色が見える。だが、私はすぐさま目を逸らした。あれは彼の心そのものだ。それを覗くなんて、ひどいことはできない。

 小屋のドアに手をかけると、中ではナナがすでに身体を起こしていた。

「ナナ、身体はどうだい――」

 ベッドの横に座ろうとして、そこに麦の種が散らばっていることに気づいた。

「メルンさん――」

 彼女は声を出すと同時に、涙をぼろぼろと溢し、泣き声を上げた。

 切ない、泣き声だった。

 間違いない。テジェクはここで、ナナに別れを告げ、そのまま――。

 ――ナナが、幸せでありますように。

 私は、彼の願いの声を聴きながら、麦の種を拾い集めて、袋へと閉じた。そして、それをもう片方のベッドへと置き、泣きじゃくるナナを強く、強く抱きしめた。彼女の身体から涙を絞り出せたら、そうして悲しみを吐き出せたら、悲しみに蝕まれた心が、早く綺麗に戻れたら、そう願いながら、私は彼女を抱きしめ続けた。


 私は、荷造りを終え、ふう、と息を吐く。この街には何日も居たものだから、随分と物を広げてしまった。まるで引っ越しにも似た苦労だ。煙管を取り出して、ミントを入れ込んで煙を浮かばせていると、ドタドタとした音が階下から聞こえた。

「メルンさん! これで作物は収穫できました! これだけあれば大丈夫です!」

 言葉と共にドアが開かれ、いくつもの麻袋を身体に引っ提げ、巻き付けたナナが現れる。

「そう。じゃあ、そろそろ行こうか」

「えっ、あっ、待ってください――ぜえ――結構重かったんですよ、これ。せっかくメルンさんに見せようと思って持ってきたんですから」

「旅の間の楽しみに取っておきたいんだけど」

「じゃあ私の苦労はなんだったんですか――」

 私は荷物を背負い、ナナの頭をぽんぽんと撫でながら、宿の階段を降りていく。

「あっ、待ってください! メルンさん!」

「急がなくていいよ、転んだらせっかくの作物が台無しでしょ」

「う――そんなあ――」

 悲しそうなナナの声を背に、外へ出ると、ローフェが荷車の点検をしていた。

「すまないね、ローフェ。手伝ってもらっちゃって」

 屈んでいたローフェが立ち上がり、首を振る。

「気にするな。――荷車も馬も、特に問題はない。安心して使えるぞ」

「そう、よかった。何かされてたら厄介だと思ったけど、問題なかったね」

 荷物を荷台に乗せ、馬の様子を見てみる。一応、こまめに世話をしていたが、寡黙な奴で懐いてるんだか慣れたんだかがよく分からない。こうして背を撫でてみても、特に反応はない。私は、ローフェの方を見た。

「まあ、元気そうではあるね、馬。ありがとう」

「礼には及ばない」

 私は改めてイェルククの街を眺めた。民が消えて、一週間。その様子は、あの日見下ろした空っぽの街と何ら変わりはなかった。ただ、ローフェが監視塔で、この街を見守っているだけ。

「ねえ、ローフェ。本当についてこなくていいの? 私達としてもあんたみたいなのがいると心強いんだけど」

 しかし、彼は静かに首を振った。

「治安官が守るのは街と民だ。旅人を守ることはできない。それに――この街は、私の妻の故郷だ。ずっと、守り続けるさ」

「そう、それならいいんだ」

 彼をこの街に一人置いていくのは気が引けたが、仕方ない。

 ローフェは懐を探ると、私にある物を渡してきた。人差し指ほどの長さの細長い笛。銀の装飾があしらわれているそれを、彼は私に握らせた。

「治安官を呼ぶための笛だ。ユースが作ったものだが、最早その力は宿ってない。いつからかその笛は、誰かの安全を願うお守りになったわけだ」

 笛には傷一つなく、丁寧に、大事に扱われていたことが伝わる。顔に近づけると、ほのかに花の香水の匂いがした。私は、それをぎゅっと握り締める。

「ありがとう。大事にするよ」

 私がその笛を握り締めると、彼は大真面目な顔でこう続けた。

「それに、もしも守りが必要なとき、燃やせば力になるかもしれん」

「――ローフェ、さすがにそれはしないよ」

 人の心があるんだかないんだか、私が頭を悩ませていると、よたよたとした歩き方でナナが荷車までたどり着いた。

「お疲れ、ナナ」

「ぜえ――ぜえ――ありがとうございま――って、メルンさん! 手伝ってくれてもよかったじゃないですか!」

「これからの旅は大変なことがたくさんある。もちろん力仕事も。これはその練習だよ」

「テキトーなこと言ってませんか――」

 威嚇のポーズを取るナナを手伝い、麻袋を荷台に乗せ、私は運転席に座った。

「じゃあ、元気でね。ローフェ」

「ローフェさん! イェルククをお願いします!」

「ああ」

 馬がゆっくりと足を動かし始めた。歩くような、踊るような、抑揚のついた動きで、荷車を引く。ローフェはろくろく手も振らなかったが、その姿が見えなくなるまで――おそらくアレのことだから見えなくなったあとも、見守ってくれているのだろう。

「あの治安官、ほんっと無愛想だね」

「ローフェさんはあのくらいがいいんですよ」

 ナナは呑気なことを言いながら、イェルククの方から目を離さない。

「メルンさん、イェルククは、また元気になりますかね?」

 半ば確信に満ちた声に、私は少し笑ってしまった。

「元気になる、って言いたげだ、ナナ」

「ふふ、これだけイェルクク自慢の作物を積み込んだんです。きっといい宣伝になりますよ。それに、仕事もいっぱいあるって伝えればきっと人も増えますし!」

 ナナが作物を積み込もうと言い出したときは、何事かと思ったが、彼女の思惑はあまりに純粋で、私はその強靭さに思わず、自分の願いが叶ったのではないかと疑った。でも今にして思えば、それは当然の事だと思う。

 人はいつも失った物を数えてしまう。だから、何かをまた得ようとする。本当にそれを得るかは重要じゃない。失った物を数えずに済むのが重要なんだ。ああ、なんて後ろ向きなことなんだろう、そんなことを私は自分に思っていた。

 でも、この少女の、一体どこが後ろ向きなのだろう。

 私は、彼女に微笑んで、答えた。

「ああ、きっとそうなるよ、ナナ。だから次の街は気合入れなきゃね」

「はい!」

 雲を浮かべた空は、今日も安穏を示していた。

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