記憶が、光に呑まれていく。眩しさに目を背け、次に見た景色はあの庭だった。庭はごうごうと音を立てて燃え盛っているというのに、燃え尽きることもなく、生垣からは依然として青々とした枝葉が伸びている。炎を掻き分けながら進むと、庭の中央――奇妙な形の生垣がある広場に出た。アンテレスが豊かな笑顔で、私を迎える。
「お待ちしておりました、メルン様」
パチパチと焚き木の音が聞こえる中、私は苦笑した。
「私が言うのもなんだけどさ、こんな火事の最中でお待ちしておりましたも何もないでしょ」
それに対してアンテレスはくすくすと笑いを溢した。
「あら、あったかいですわよ。あなたが灯してくれた火ですもの」
アンテレスは、私が初め会った頃とは全く違う表情を見せていた。その目にはいくつもの感情が宿り、だが、だからこそよく分かる。歪な感情がいくつも渦巻いているのだ。一部神と人間は異なる生き物。善の基準も違い、それは私にとっては、あの悪夢の空の、君の悪い極彩色のようにも思えた。しかし、アンテレスの感情は、あのような無秩序さは伴っておらず、気色悪さを観測できるのはほんの少しのみであった。
「ごめんなさいね。力を取り戻して、頭がはっきりしたのはいいのだけれど、昔のような心と頭は私にはないの。私のこの意識も、ただ残滓に縋っているだけ――。習慣が根付いたイェルククの性質だけで、私という存在は成り立ってるの」
「それでも、記憶は残ってる。記憶というのは頭だけでするものじゃないらしい。どうやら一部神にとっては、だけどね」
私は、アンテレスの前に立つと、その眼を深く覗き込んだ。混沌とした感情の奥底、そこには色もなにもない空虚だけが広がっていた。
「――確かに、あるようで、何もない。願いと呼べる強い意識が君にはないのか」
「その通りです。かつての一部神メルネポーザも似たような力を行使しましたが、頭と心の接続を失った私から、願いは抽出できなかったのです」
彼女は少し憂いを帯びた表情のまま続けた。
「恐らく、私は何かをずっと間違え続けています。しかし、それが何かを分かることも、聞き入れることもできません。私は覚えていられず、私は習慣から逃れられないのです」
「じゃあ私がここでどうこうアンに忠告したところで意味はないのか」
「覚えられても数日のみ。あなた様が永遠にここで、私にそう知らせてくれるのならいいのですが」
「私が死んだあと、どうするのって話だし、私もやることがあるからなあ」
――どうか新月の夜を繰り返してくれ。
ダンヘルグの願いは、本当の意味で願いであった。メルネポーザが叶えられなかったアンテレスの夢を、私に叶えてほしいという、あまりに無謀な願い。アンテレスには感情がなかった。彼女の言う通り、習慣が残した亡霊にも近しい。死者を蘇らせることは、医者にはできない。
でも、それは、彼女が本当に死んでいるのなら、だ。
「こんだけ踏ん張った同郷の大先輩がいるんだから、私もそれに報いたいよね」
私に医者を名乗る資格はない。神授医を名乗る資格もない。だけれど、私は旅人で、願いを叶えて回ったメルネポーザの名を与えられた者だ。治すことはできなくても、願いなら。願いさえ、導き出すことができれば。
「ねえ、メルネポーザは、あの新月の夜、あなたを自分の中に封印した」
「はい、その通りですわ」
「その再演をするよ、アン。ダンヘルグの願いがまだ残っているのなら、可能なはずだ」
「私を――メルン様の中に封印する、と? 無茶です、メルン様。あなたは人間の身。成功したとして、私の力に侵食されて、麦になって消えてしまいます」
「封印なら、そうだね。でも、願いさえ抽出できればどうにでもなるよ。一部神の願いを叶えてみたことはないけど――」
私は、奇妙な形の生垣に近寄る。ナナを象徴する生垣には多くの緑の種が蔓を張っているが、今はテジェクがコントロールしているのか、かなり大人しい。指で一つを摘まんでも、蔓を伸ばしてくることはなく、ただうねうねと、あてどなく宙を遊ばせているだけ。
「私が見たのはアンの記憶のはずなのに、それ以外の光景が見えるのはおかしいんだ。特に最近の記憶に関しては、アンが認識できるわけもない。それなのに、アンはそれを覚えていた」
頭へと蔓を引っ張る。ああ、まるで点滴の針のようだ。私は慎重に位置を探る。
「それに、イェルククの習慣がアンを動かしている、っていうのもおかしい。だってアンには頭も心もないはずなのに、習慣という概念がアンに作用するとは思えない。物事は神事だろうと単純だよ」
「メルン様――何を――?」
「つまりだね、アン。君は、どうやってかは知らないけれども、この麦の力を使って、イェルククの人と繋がっているんだ。ただ、その繋がりが薄いから、君は頭も心も取り戻せずにいる。私一人の頭と心――その全てを使うといい。私はそこから願いを抽出する」
「それは――しかし――それは、新月病の種でございます、メルン様」
「そうだね。失敗すれば、私は麦畑を撒き散らして旅が終わりになる。でも、そのくらいの方がいい。一部神も、人も、同じ話だ。窮地に立たされた方が、願いは強くなる」
蔓の針を首の骨、神経の通うところへと沈めていく。すぐに身体が蔓に包まれ、感覚が足元から消え失せていく。きっと、足が草に変わっていることだろう。しかし、確認はしない。私はじっとアンの目を見据え続けた。その目に、順繰りに感情が、思考が宿り始める。だが、これは想定よりも遅い――このまま私が麦に変わり果てれば、彼女の願いを叶える者はない。
「間に合ってくれよ――」
アンの目から様々な記憶が濁流のように襲い来る。ああ、やっぱ伊達に生きていない神様だ。思うことも考えることも多くて、願いが奥底に沈んでいる。そりゃそうだよな。神様が何かに縋るなんて、そうそうないことだろう。
アンはずっと孤独に戦ってきた。敵がいるわけではない。むしろ自分の存在が、人を受動的に脅かしてしまうだろうという不安を抱え、その感情の名前も知らないまま、生きてきたのだろう。ああ、願いが遠い。でも、必ずある――。
自分の目に草葉がかかり、視界を遮ろうとした。そこで私の身体は酷く侵食されているだろうことに気づいた。ああ、問題はない。目の前が全て真っ暗になって――大丈夫。
――私が犯した間違い。全ての者にあるべき姿と、失われた幸福を。
「あなたも含めて、です。メルン様」
その声に私は笑みを返したつもりだったが、口の感覚はなかった。だから全て、勘で身体を動かす。いつものことだ。煙管を持ち、願いの欠片を落とし――いや、これも贖いだな。願いではなく、贖い。私は煙管に火を点け、その煙を吹かした。
煙とは本質であり、炎は導だ。
「あなたの想いが、あなたを救わんことを」
戯言であり、真言だ。
夢を見た。神の願いが全てを叶えるような、希望に満ちた夢。
イェルククの人々は元に戻り、幸福な旅立ちをアンが見送ってくれる。
そんな夢を見た。
私は初めて、悪夢ではない、人らしい夢を見ていたようだった。