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第三十六話

 私は気づけば、森の中にいた。昼の、焼け果ててない、無事な森の姿だ。

「成功したっぽいね。久々だったからドキドキしたけど」

 彼女の記憶の中の森は、今よりも植生に溢れてはないものの、普通と比較すると、草木が所狭しと、互いに枝葉をぶつけ合いっている。

「アン――何をしているんだい?」

 鬱蒼とした森の中、わずかに男の声が聞こえた。テジェクのようだ。急いで声の聞こえた方へと向かうと、そこには男女がいた。テジェクの容姿は今と全く変わっておらず、その首には紅いペンダントもかけられている。また、アンの姿も夢の中で見た通り、白い貴婦人と言った出で立ちだったが――その表情は夢で見たものとは違い、豊かだった。

「あら――あらら、テジェクさん。ごきげんよう。森の整備をしていたんですわ」

「また植物を植えすぎたりしてないだろうな」

「まさか――子守林をちょっと増やしただけですわ」

 テジェクはそれを聞くと、眉根を顰めた。

「おい――アン。これじゃあ子守どころじゃない。森が暗すぎて恐ろしくすらある」

 確かに、木の葉が天蓋のように日の光を遮り、子供どころか大人も立ち入りたくはないだろう。私は少し吹き出しそうになり、首を振った。私は手術のために来ているんだ。

「そうですか? あら、本当だわ、またやり過ぎてしまいましたわ――」

「まったく――だから過ぎたりのアンテレスなんて言われるんだ」

「あらあら――また言われてしまいましたわ」

 彼女の苦笑が、木の葉に覆われて消え去る。記憶や夢に連続性が失われるのはよくあることだ。目の前に積み上がったその山を崩すと、予想通り、違う場面が現れる。

「ダンヘルグ、彼女は治せそうかい?」

 知らぬ女性が、若い男に話しかけている。この細長く、力もなさそうな姿が、岩を思わせる彼とは一致しないが――どうやら本当にそうらしい。若いダンヘルグは唸った。

「一部神の治療なんてやったことがないからな、わからないよ、メルン」

 身体が勝手に強張った。しかし、彼は私の名を呼んだのではなく、あの女性を呼んだらしい。彼女は肩までの短い白髪に、赤い目。それらの身体的特徴は私に似ている気もするが、背格好や顔立ちは全くの別人だ。

「セオ院長、私にこうなってほしかったのか――」

 豪快に笑いながら背中をバンバンと叩く彼女を見て、私は頭を掻いた。

「ハウゼの神授医が何を弱気になっているんだ。大丈夫、私はあんたらならできるって知ってる。アンテレスの病は、あんたなら絶対にどうにかなる!」

「また格好ばかりなこと言ってるんじゃないだろうな、メルン」

「そんなんじゃないさ。それに、あんたはこの病を知った以上、何ヶ月、何年、何世代かけたって、君は病気を駆逐する、だろ?」

 ダンヘルグは顔を逸らして、その耳を赤くした。

「やめてくれ――。あの言葉、ハウゼで流行っちゃってさ――からかわれるからあまり故郷にも帰りたくないんだよ」

「そりゃいい。その分、病気の駆逐に全力を注げるな?」

「君までからかうのは止してくれよ――」

 急激に火の手が上がった。記憶の切り替わりは、そのものの感情と印象に起因する。となれば、この記憶はおそらく――。

 炎を掻き分けて進むと、燃え盛るイェルククの街が眼下に広がった。時計塔は煤に塗れているのみだったが、家も畑も、その影が分らぬほどに、炎に呑まれ、時折、悲鳴が聞こえてくる気がした。

 空には月が浮かんでいない。新月だというのに、この街は明るい。

 後ろを振り返ると、アンテレスの大樹が燃え果てており、そこにはダンヘルグとテジェク、そしてメルンの姿があった。メルンは憂鬱な表情をしていた。

「アンテレスを、一時的に私の中に封印した。けれど、これは解決策にはなり得ない」

 ダンヘルグは幾度か頷いた。

「分かってる。君は次の街に行かなければならない。そうなっては、この街はアンテレスの庇護を失って、全員が麦に戻ってしまう」

「アンテレスのここまでの暴走は、予想外だった。過ぎたりの命――すまない、私が付いていながら――」

 テジェクはメルンの肩を掴み、首を振った。

「メルン、君の失敗じゃない。誰の失敗でもない。ただ、ただ――アンは――イェルククの街が、ずっと平和であるように願っていただけなんだ。それだけなんだ――」

 ダンヘルグは大樹を見上げた。最早、炭同然にまで焼き払われた神の象徴。しかし、黒焦げたその大樹が、再び花をつけてしまう想像が、部外者である私にすら容易に出来た。

「この街は、アンテレスの過ぎた庇護を受け、これからも存続する――。だが、してはならない。次、アンテレスの力が溢れてしまうときまでに、アンテレスを――」

「治せそうかい?」

 メルンの言葉に、テジェクとダンヘルグは驚きの表情で顔を上げた。しかし、すぐに二人は顔を見合わせて頷いた。

「当然だ、メルン。何ヶ月、何年、何世代かけたって、ハウゼの医者は病気を駆逐する。この不死身の身体はそんな目的のためには最高の代物だ。――だから、そんな弱気な顔をしないでくれ、メルン。君にそんな顔は似合わない」

 森が、急激に移り変わり始めた。木々は頻繁にその葉を落とし、若葉を生やし、花は辺り一面に種を撒き散らしていく。生き死にを繰り返す森を抜けると、そこは森の中の小屋で、老いたダンヘルグは安楽椅子で揺れていた。その対面には、変わらぬ姿のテジェクがいる。

「まだ、正気は保てているか、ダンヘルグ。他の者の記憶を定期的に消し、輪廻転生を疑似的に実現させた――その所業、一人の身に耐えられるものではないだろう」

「ああ。かと言って、投げ出すわけにもいかぬ。これも、また治療に必要なことだ。君は――聞くまでもなく、正気だな。流石は元『浮雲』の者だ」

「不死から来たもの。それが俺達だ。数百年くらい造作もない。――俺みたいなことをしなければ『浮雲』の人間は永劫残り続けるといっても過言じゃない」

「干渉せざるが雲の意味――だったか。世界を変えようと表に出てしまえば、人の身に再び落ちる。とはいえ――アンテレスの祝福によって、結局は同じような生だな」

「――昔話はいい、ダンヘルグ。ナナをどうするか、だ」

 ダンヘルグは安楽椅子を軋ませた。

「リギエースには何か意図があるかもしれない。しかし、『浮雲』は表舞台には立たぬ。そうだろう、テジェク。結局、彼女が何をどう考えようが、私達にできることは自分たちの善行を突き通すのみだ」

「じゃあやはり――」

「ああ、ナナをこの街から逃がす。あの商人たちは悪人だが、テジェク、お前が見守るなら何一つとして問題はない」

「だが、心臓のないあの子は、新月病を吸収してしまう。アンテレスの影響から逃れたところで、彼女は長く持たないぞ」

 ダンヘルグは、その言葉に首を振り、服を捲った。

 その腹からは麦の穂が幾つも覗いており、血が滲んでいた。新月病が進行していた。

「私達には、どちらにせよ時間がない。私の正気も、もうじきに失われる。あの子の帰る場所が消えてしまう――」

 テジェクは、しばらく言葉に詰まったが、諦めたように聞いた。

「もしも駄目だったらどうする?」

「それこそ、リギエースがナナに告げた通りだ。ハウゼからの旅人――医者ではなく、旅人。その者が鍵となるはずだ――」 

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