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第三十五話

「『私は何度、悔やんだことだろうか。私は何度、嘆いたことだろうか。天蓋を覆い尽くす黒煙、黒焦げた炭の味は未だに舌に残っている。私は逃げたのだ、天秤から逃げたのだ』」

 迫りくる麦の龍を、じっと見つめる。

 食らいついてくるその口は、私の感情を揺さぶるものにはなり得ない。

「『私はあの日を忘れない。三四七年――ハウゼの大火事を』」

 手元の髪の束は一瞬で燃え去り、口の中には炭の味が広がる。目からは勝手に涙が流れ落ち、今この場から、逃げ出したくなった。ナナを連れて、山を降りたくなった。怖気づいたからではない。諦めたからではない。そも、私の感情じゃない。

 これが、ローデスの感情だ。

 私は、突然の眩しさに、片手で目を覆った。目の前の麦の龍が炎に包まれながら、あちらこちらへとのたうち回っている。その龍を伝って、大樹は豪炎に包まれていた。見渡すと、山の全てが火の海に包まれており、その波は不規則に、月の浮かばぬ夜を、まるで昼間かのように煌々と照らしていた。荒れ狂う炎は空気を頬張り、のたうち、全てを例外なく呑み込んでいく。

「メルン――その力――」

「あんたはイェルククとナナを治安して。テジェクは私に任せて」

 ローフェは、すぐに頷くと、その口を動かし始める。

「『審判と治安の法典改二より特記の一、ハウゼの大火事の前例を忘れるな。ハウゼの大火事の後例を許すな。二度とあの時のような犠牲を許すな。二度とかの天秤のような犠牲を許すな。それに比例する際において、治安官は一部神に匹敵する権能を、治安のために許される――』」

 あまりにも自戒めいた詠唱。そこには、規則よりも、この条文を取り決めたものの感情が先行しているように思えた。声の方を振り向いたが、そこにローフェの姿はない。

 私も私の仕事をしよう。

 私は脅威のなくなった森を――大火事の森の中でこう言うのも変な話だ。だが、私にとってこの炎は命を奪う災禍ではなく、前進のための導に近しい。レーチヤから逃げ出したときも、リースが灯した炎から全てが始まったのだ。

 炎に善悪などない。だからこそ、私はこんなに落ち着いている。それなのに、私はこんなに落ち着いている。炎に善悪はないと嘯くのは、炎に善性を見出した者の戯言か。

 アンテレスの大樹の前では、男が一人、何をするでもなく立ち尽くしていた。

「どうしたの? これで終わり?」

 テジェクは、空を見上げていた。天に伸びた麦穂もまた業火に晒されて、蛍の儚火のように、そのばらけた身体がゆらゆらと地へと落ちていく。

「殺すといい。私を。それで全て終わりだ」

「どうしてあんたを殺す意味があるのかな。確かに、とんでもないことをしでかしてくれてるけど、私が審問官に見える?」

「私を殺さねば、死ぬぞ」

 炎に塗れた麦の龍が、一直線に突っ込んできた。私は、護身の力でそれを弾く。炎は逸れ、弾けて炭になった。ハウゼにおいて、その命の半数を食らい尽くした死の炎。それに焼かれてもなおその力を失い切ってはいなかったようだ。

 ふと、日差しが強くなったような気がして、私は空を見上げる。天を衝くことを諦めた龍たちが、今や首をもたげて、私の方へと向いていた。

「アンテレスはこの身を媒介としている。故に――その御身を燃やそうともいずれ君へと牙を剥く。過ぎたりの名は、その全てが過ぎていることから来ているのだ。命も、その存在も同様。無限の命に終わりはない」

 その目から覗く感情に、私は眉を顰めた。

「そりゃ、ご忠告どうも、死にたがりさん。あんたを殺せば済むって話だ」

 こいつは、こんなことを言っておきながら死ぬ気がない。

「なんでそんな自信満々なのかな。無限の命とは言えど、炎は弱点みたいだよ。動きが鈍ってる。これなら問題ない程度だ」

「炎はいずれ消えるものだ。だが、こちらには終わりがない」

「時間稼ぎには十分ってわけ、なるほど」

 軽口を叩きながら、私は疑念を抱いていた。

 何か、変だ。呆気なさすぎる。私が、ハウゼの大火事を再現できる――これは偶然であったが、少なくとも私が火を起こせることを、彼は知っていたはずだ。

 それに、彼は私たちの到着をわざわざ待った。ナナを攫ってからはかなりの時間が経っており、その間に、アンテレスを復活させるのも訳なかったはずだ。どう考えても、私たちの存在はリスクになる。それを容認するようなバカが、ローフェの監視を欺けるとも思えない。では、待っていた理由、というのは――。

 私は逃げる足を止めて、テジェクの方を見つめた。変わらず龍は私に食らいつこうとするが――目の前ぎりぎりで動きを止めた。熱風が首を撫ぜて、髪の焦げた臭いがする。

「何をしている――!」

 テジェクは、目を見開いて、私を怒鳴りつけた。さっきほども、焦燥を感じる。

「そうか――やっぱり、殺すつもりないんだ」

 私は一度、伸びをして、身体の調子を整える。

「あんたが待っていたのは、アンテレスの暴走をコントロールする手段。そのためには彼女の弱点である炎が必要だったんだ。弱っていれば、その力を人の実でも制御できる――けれども、あんたにはその手段が用意できなかった。とすれば、私を利用するのが一番いい方法になってくる。だけれど、あんたにはさっきから殺意の一つも感じられない。じゃあ、コントロールの目的は支配じゃなくて抑制ってわけだ」

 テジェクは無言で、その目を逸らした。口は真一文字に結ばれており、次の言葉は期待できなさそうだ。私はため息を吐いた。

「どうしてこう――私が出会う人々ってお人好しばっかなんだろう。それって人間であることの矜持かなにか? 自己犠牲って自己完結って意味じゃないんだよ」

 ふと、私はアンテレスの目が開いていることに気が付いた。その目の感情が見えて、私は目を伏せた。そうか、あんたもか。

「でも、あんたのことは好ましいと思うよ、テジェク。私に助けを求めたから」

 私は、アンテレスの前に立ち、顔を見上げた。そして夢に入るため、精神を整える。

「ねえ、この龍をコントロールできるのは、あとどれくらい?」

「――この大火事が続く限りだ」

「わかった。じゃあ一晩中だ。それだけあれば手術には間に合う――安心して待ってて」

 私が大樹へと近づくと、彼女はその身体を前へと倒した。アンの瞳は、木の洞から現れたとは思えないほど、潤っていて、まるで湖のように見えた。

「神の夢に立ち入るのは初めて――いや、そうじゃなかったな」

 その目を見つめていると、次第に周りの景色が変わり、自分の足元も覚束なくなっていく。沼に沈むような、身体が解けていくような感覚に、私は身を任せた。

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