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第三十四話

 テジェクの開いた手からは、黄金色の実がはらはらと地に落ちる。

「貴様――何かを起こそうものなら、簡単に鎮圧を受けるぞ」

 身構えたローフェの言葉に、テジェクは口の端を少し吊り上げただけだった。

「人であるこの身は、確かに治安の力には抗えない。だが――人でないとしたら?」

 私は、テジェクの足元で、何かが蠢くのを見た。黄金色の実が、地からゆっくりと這い出した根に絡みつかれ、土の中へと埋もれていく。その実には微量の血が付着している。

 あれは、ナナの手の穂から摘み取られた実だ。

 麦の新月病の根幹、そのものとも言える麦の実。

 この山が、私の予想通り、彼女の庭だとすれば、新月病は、やがて彼女を飲み込んでしまうのではないのだろうか。そうだとすれば――あの庭に、新月病が溢れる――。

 ローフェも、呑まれていく実に気づいたが、力の行使はできていない。

「一体、何をした――何にそれを捧げた――?」

 テジェクはゆっくりと身体を前へと折り曲げ、慇懃無礼なお辞儀と共に、彼は答えた。

「もとあった場所へ」

 初めの違和感は耳からだった。

 おおよそ聞いたことのないような音がした。あえて表現するなら、めり、という音が正しいのだが、その音の種類はあまりに多く、森が歌う、とはかのようなことであったかと思い知らされる。

 木が倒れるような音を背景に、湿り気のある何かが滑っているのが聞こえる。その音が頭上から鳴っているのを感じ、私は、はっとして大樹を見上げた。

 大樹が急激にその枝葉を伸ばし、満開の花を咲かせていた。急激に咲き誇る花々からは川のせせらぎを魚が這うような、しかし半ば臓器じみた音で、次々に蕊を突き出す。

 まるで渦巻が逆巻くように開いた蕾たち。その大きさは家屋を簡単に飲み込みそうなほど巨大だ。その中央から伸びる一本の蕊は、この森に生えている大木たちほどの太さがあり、麦の穂をそのまま肥大化させたような印象。南瓜とも見紛う実、その殻からはよく見知った形――人の顔が覗いていた。収まっていた。そのどれもが、安らかに眠っているかの表情だったが、そのどれもが口をわずかに開閉させ、呼吸していることが見て取れた。

 間違えていたことがある。彼の礼儀は、私に捧げられたものではなかった。

 人間は、強制されるでもなく、かの者に礼を尽くす。

 一部神に対しては。

「約束を果たそう――」

 大樹は、その幹を縦半分に裂きながら、その内よりは人の胸像が現れる。満開の花に彩られた静かな笑顔。穂に宿る多くの命に囲まれながら、その両手を広げる彼女の表情は、私がよく知るものであり、まったく覚えのないものであった。

「過ぎたりのアンテレス」

 かの貴婦人は、その目を閉じたまま、あの日のように、ダンヘルグの新月病がイェルククの街を覆いかけたときのように、その巨大な穂をいくつも天空へと伸ばし、空を覆い始めた。

「冗談きついよ、アン――」

 その勢いたるや、影響はイェルククのみで収まるはずもない。

 これは、世界を覆い尽くすつもりだ。

 私がその光景に呆然としていると、アンテレスの花のいくつか――数え切れないうちの、ほんのわずかのみではあるが――が回転しながら、こちらへと顔を向けた。そこから向いた穂からは頭が覗いておらず、むしろその殻の一つ一つが、口のように開いた。呼吸による安穏とした動きではない。

 私は慌ててマスクを着け、飛び退いた。次の瞬間、麦の穂から伸びるそれぞれが、地面を衝撃と共に抉り込んだ。森の湿った土が飛び散り、私のマスクのレンズにぐちゃりと跡を残した。数瞬、遅ければ、このレンズに付いていたのは赤い泥だっただろう。

「ローフェ! 治安の力はどうなってる!?」

 ローフェは青く光る指先で、その他の麦の龍を受け流していた。川の流れが石を避けるように、龍の攻撃は脇へと逸れていく。しかし、それは治安というよりは護身のためにようやく使える力のようで、龍を制圧するに至っていないらしい。彼は、片手で額の汗を拭った。

「あれは一部神だ――人の治安ならまだしも、神の治安は担ったことはない――」

 煙のように立ち上る穂は、天に触れたかのように靡くと、星空を帳だと言わんばかりにその根を空に沿って張っていく。天球がガラスで出来ていたとするならば、罅はこのように入っていくのだろう。私は、ローフェと背中合わせになり、その護身の力を借りた。

「アンテレスは――その昔、この世界の全てを掌握しようとした一柱だ。滅んだと聞いていたが――どうやらこれはその再演らしいな――」

「その時はどうやって止めたの?」

 そう聞くと、ローフェは軽くこちらを見て、答えた。。

「分かっていたら、もう君に頼んでいるか、私が治安を実施しているかだ」

「でしょうね」

 私は、首を後ろに回したまま、大樹を、アンテレスを見つめた。依然、大樹はその姿を変えており、天球に張る根はいよいよイェルククの空からはみ出そうなほどだった。

 どうやら、賢明に物事を考えている暇はないらしい。

 私は胸ポケットに手を突っ込んだ。いつでも手の届く場所に置きながら、使うことのないように願っていたもの。取り出したのは赤い髪の束。それを数瞬見つめてから、ローフェに声をかけた。

「ねえ、あんた、治安官なら知ってるでしょ。ハウゼの大判例――」

「なに? 何の話だ」

「いいから。知ってるでしょ」

「ルダの天秤のことか。有名な話だ。だが、それがどうした」

「あの時――治安官があの街に居たら――」

 赤い髪が揺れる。悪夢が頭を過る。私が初めて、『願い』を、使うためではなく取り除くために抽出したもの。その人の半生から生まれた毒のようなもの。

 いや、こういうのは願いとは言わない。贖いと言う。

 私はマスクの位置を整えた。

「先生たちは、あんなことにはならなかったのかな」

 ローフェはちらりとだけ振り返り、ため息を吐いた。哀悼の意を含む、儚い息だった。

「治安官は皆、唇を噛む。悔しさにだ。一市民にあのような重責を背負わしたことを。多くの犠牲を見過ごしてしまったことを。私が居れば、と――その悔しさに唇を噛む」

 ローフェの空いた拳は、白み、震え、力強かった。

「そう」

 私はローフェの前に躍り出た。

「待て、メルン。何をする気だ――」

「頼んだよ。あんた――いや、治安の信念、信じてるから」

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