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第三十三話

 彼は、術が終わったのだろう、すぐこちらに脂汗の浮いた顔を向け、

「宛てができた、顛末は移動しながら話すぞ」

 と、小屋を乱暴に出ていった。彼はずいずいと森の奥へと進み、私もそれに従う。

「ゲルファーガの記憶を遡った。まず、結論から言えば、あれはゲルファーガの形をした何かだった。麦で出来た人だ。新月病ではない。新月病ではない何かだ。麦がいくつも地面から現れて、ゲルファーガの姿を取っていた」

 道を急ぐローフェの声は、再び震えた。

「ゲルファーガだけではない、ミラーデもアファルカルもグレーシェも――つまり、他の住民の姿にも化けていたのだ」

「待って――じゃあその人たちは――」

 口にしようと言葉を察して、ローフェは地面を強く蹴りつけた。

「ああ、クソ、そうだ――あの四人はもう死んでいるのかもしれないんだ。それもずっと前にだ。あり得るとしたら、街の外に出た時だ。確かにあの四人はそれぞれの目的があってイェルククを出たことがある。だが、私は全く気づかなかった――」

 ローフェは目を伏せて、深呼吸を繰り返した。

「いや、悪い。話を戻そう。この麦の人間は何回か、この北の森に侵入している。北の森の奥に、枯れ果てた大樹があるんだ。そこに、ナナの所と似た小屋があった。それ以上は見られなかったが――ナナはそこにいるかもしれない」

「それが今向かっている場所、ってことか」

 昼の間でも鬱蒼と暗かった森だが、夜となると、その方向がほとんど分からない。目印はなく、方角もずれやすいから、森はまず避ける通り道だ。しかし、そんな闇の中をローフェは一片の迷いもなく進んでいく。

「距離が近づいて感知できるようになった――ナナはまだ生きている。その状態の詳細までは知れないが――私たちが向かう場所に、彼女はいるはずだ」

 その情報に私はひとまず、胸をなでおろした。

「残る懸念は、ローフェと戦った男、だよね」

「ああ。あいつ、妙な術――いや、最早、術の範疇を超えているだろう。地面から出てきた麦の束に腹を突かれたんだ。まるで自分の手足だと言わんばかりに、奴はそれを操っていた」

「――ダンヘルグの新月病の時によく似ているね」

「私もそう思う。地面には気をつけろよ、メルン」

 北の森の奥の奥。そこに着いた時、強い眩暈を感じた。私の頭の中には、また庭の光景がフラッシュバックし――大樹の前にアンの姿が見えるような気がした。

「おい、平気か、メルン」

 ローフェの心配の声がかかるが、その声音は張り詰めている。

「平気――」

「メルン、ナナの反応はその小屋からしている。行って、様子を確認してくれ。私はこの場所を、警戒区域として治安の下に置く。だが――警戒は怠るなよ」

「わかった――」

 私は足に神経を集中させながら、小屋へと向かった。頭の中で、麦が襲い来る光景を思い描き、そのシミュレーションの中で、私は何度か脇腹を貫かれ、その考えを払うように首を強く振った。

 私は、これを罠だと思っていた。ドアノブを握った瞬間に全身を貫かれてもおかしくないと警戒しきっていた。だが、いとも簡単に小屋は開いた。

 ベッドは二つ、大小と仲良く並んでおり、大きい方にナナが寝かされていた。

「ナナ――!」

 本来であれば、そう軽率に動くべきではなかった。小屋の中にだって罠を仕掛ける余地はあるだろうし、敵に気づかれる可能性だってある。だが、彼女の姿を見た瞬間、心はそうすることをずっと前から決めていたかのように、私は彼女に駆け寄った。

「メルンさん――?」

 彼女は首をこちらに向け、ゆっくりと微笑んだ。容態は驚くほど安定しており、出血の類も見られない。だが、これは治療によるものではなく、呪いが緩和されていることに由来するだろう。彼女の右手は元に戻っており、左手には実をつけていない麦の穂が揺れていた。

「大丈夫? 痛いところはない?」

「大丈夫ですよ、身体だって起こせますし――」

 そう言って、腰に力を入れる彼女をすぐに押し止める。

「動かないで、病人は安静にしておくんだ。他に、気持ち悪いとか、寒いとかは?」

「あ――でも、ちょっと寒いかも――」

「じゃあ、これ――ちゃんとかけておくんだよ」

 隣のベッドから毛布を持ってくると、ナナはそれを口元まで引っ張り、笑いを溢した。

「ふふ、なんだか、メルンさん、すごい優しいですね――。メルンさんだけじゃない。お父さんもすごく優しくて――。病気した時って、皆優しくしてくれて――苦しいけど、なんか、よかったなって――」

 ナナはまるで日常の延長線のように、この出来事を話す。何か、おかしい。どうして彼女はこれほど安心しきっているのだろう。容態が安定しているのは分かる。しかし、人攫いに連れていかれた時だって、ナナは心細くて震えるような少女だ。

「――待って、ナナ。なんで、お父さんの話が出るんだ――」

 そう聞くと、ナナは首を傾げた

「あれ? そっか――お父さん、メルンさんたちに言うの忘れてたんだ。お父さんが迎えに来てくれたんですよ。頭もぼーっとしてたので、あんまりちゃんと覚えてないんですけど、お父さんがこっちの小屋に連れてきてくれて、病気を治してくれたんです。やっぱり嘘つかないで、私のこと、見ててくれたんだ――」

 私は数瞬、言葉に詰まったが、

「そっか。なら、よかった」

 とだけなんとか絞り出した。

「ナナ、私、またちょっと出てくる。すぐ近くにいるから、何かあったら呼んでね」

「はい――ありがとうございます――」

 目を伏せ、お辞儀をするように、首を振ると、そのまま彼女は寝てしまった。体力をかなり消費しているのだろう。あとで何か栄養のつくものでも食べさせないと。

 小屋の外に出ると、ローフェは大樹を眺めていた。

「治安は、もう出来たの?」

 彼は振り返ると、固く頷いた。

「ああ。ここの情報は、今なら正確に把握できる。危害を加えようとすれば、それは治安の網に引っかかるだろう。ひとまずここは安全だ。ナナの方はどうだった?」

 また、言葉に詰まる。いや、喉元にすら言葉はなかった。

「無事――だったよ」

 それだけ、とりあえず言うと、彼は険しい顔をした。

「諸手を上げて喜ぶ――とはいかなさそうだな。何があった?」

「恐らくだが――ナナを攫ったのは、ナナの父親だ。『浮空』の派閥――これと同じようなペンダントしてなかった?」

「『浮空』だと? そんなまさか――」

 しかし、彼は、私の手元の紅い石を見た瞬間、私と目を見合わせた。

「していた――覚えているぞ。確かにあの男は――」

 ローフェは突然、私を抱いて大樹から飛び退いた。警戒しているのか、飛び退いた後の動きは慎重で、私はゆっくりと地面に下ろされた。

「――同じ気配だ。あの男だ、メルン」

 大樹の奥の方からゆっくりと、人影が現れた。

 黒いローブに紅い石のネックレス。彼の容貌はまだ青年といった具合で――ナナの父親にしては若すぎる。彼は、ナナとは全く違う小麦のような色の目を向けて、会釈をした。

「あんたが――テジェクか―?」

「ああ。初めまして、メルン。君を――待ちわびていたよ」

 彼の手からは黄金色の実が覗いていた。

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