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第三十二話

 どれくらいの時間が経っただろうか。とうとう石が、手から滑り落ちた。ああ、血で滑ったのか――。私は、ぼんやりとした頭で、まだ無事な左手を伸ばす。しかし、夢の中の庭の光景がフラッシュバックし、いよいよ意識の限界を感じていた。

「『アンテレスの森は、全ての者を包み込み、癒す者である。アンテレスの森は捕食者の牙を見せず、微笑みを見せるのみ』」

 その声と共に、意識がだんだんとはっきりとし始め、足元の蔓がするりと解けた。突然のことに呆然としていると、目の前に手が差し出される。

「立てますか」

 顔を上げると、ぼんやりとした視界の中に、白い服を纏った貴婦人の姿があった

「アン、か――?」

「お戻りください、あなた様。この庭で、消え果ようとしている命があります――」

 私が意識を完全に取り戻し、立ち上がると、そこには何の姿もなかった。

 薬草を取らなければ、そう考えていたが、どれだけの時間が経ったのか、もう夕暮れ時となっていた。もはや私の算段は宛てにならないだろう。それが――無力さの証左になって、私の胸を圧迫した。

 小屋に戻ると、そのドアは開けられており、男が一人倒れていた。見知った顔――。

「ローフェ――!」

 駆け寄ると、彼は腹部から血を流していた。致命傷ではないが、出血が多量であれば死亡にも繋がる。私は、ローフェの意識を揺り起こす。

「ローフェ! 返事をしろ! ローフェ!」

 今の手持ちの薬草では彼の治療は無理だ。それに、医療器具も全く足りてない。この止血を上手く行かせるためには、願いを抽出するしかない。

「メル――ン――か――」

 ――レリを置いて、先には逝けぬ。

 わずかに開かれた瞳から、想いを取り出し、傷の治療に充てる。みるみると癒合する腹部。血だまりがまるで滝のように腹部へと引き、その傷の形が明らかになる。

 見たことのない形状だった。何かでぐちゃぐちゃにかき混ぜられたような――幾つかの棒状のものが突き刺さったか――可能性を思案しているうちに傷は塞がった。ローフェはまだ痛みが残っているはずだが、数回深呼吸をしただけで、いつものように話し始めた。

「すまない、メルン――ナナを、連れていかれた――」

 私は、その瞳を注意深く見つめ、首を振った。

「あんたは全力を尽くした――何があったの?」

「知らない男だった。術を使ったということではない。見覚えのない男が、いたのだ。黒いローブを纏った――その男がナナを連れ去った。――すまない、その方向は――分からない――」

 ローフェの握り拳は震え、段々と白くなっていく。血が止まったから、そして、夕焼けが沈んだから。空には月があらず、暗い夜がやってきた。


「体調は大丈夫そう?」

 ローフェの肩を担ぎ、小屋の中に入っていく。まだ痛みがあるようで、身体は上手く動かせていないものの、治療自体は上手く行ったようだ。

「ああ――だが、それより――状況を整理しよう」

「――はあ、分かった。ナナのことが先決だからね。私も聞きたいことがある」

 私は、小屋の椅子を、ベッドの前に持っていった。ローフェの傷は癒合したものの、効果はそれほど強くない。傷が開かぬように、安静にさせた。

「何故、魔女狩りのリーダーをやっていたか、か?」

 彼の側から言われると思っていなかったので、私は面食らったが、頷いた。

「最初は『信仰』の術だと思ってた。けど、あの正体の保護――思い出したんだよね。ある人の裁判の記録を見た時に、加害者も被害者も守りつつ、陪審員に裁かせるっていう方式を学んだんだ。ユースは、私人に裁く権利はないと述べている。しかし、人間は裁きを下したがる。それ故、正体そのものを隠匿する術が『掟』から生まれた」

「その通りだ。君が襲われた時に使われた術は、『掟』に由来する。それで気づいたか」

「どうして、魔女狩りのリーダーを務めたの? あんたが私を排したがったとは思えない」

 ローフェは一度、天井を見上げると、再びこちらを向いた。話す内容をまとめたらしい。

「とある者たちが夜に監視塔を訪れた。君が新月病を燃やした夜だ。その者たちは口々に君の凶行を口にした。炎で燃やし尽くした、ナナを人質に取った、ダンヘルグと口論になっていた――様々な証言が上がったが、その統一性のなさに私は疑問を抱いた」

「そんなめちゃくちゃ言われてたんだ――悪者すぎない?」

「ああ。だが重要なのはそこじゃない。一つは証言のバラつき。もう一つは一夜の内に押し掛けた人数の多さ。メルン、新月病と対峙した時、他に人の気配はあったか?」

「余裕がなかったから断言はできない。でも、そんなに多くいたはずはない」

「私の目と耳からしても同様だ。となると、何者かが、君に策略を仕掛けたということになる。提言に来たのはどれも事情を知らぬ不安を煽られた者たちばかりだ。私はそれを纏め上げ、拡大を防ぎ、同時に情報を収集することとした。危険の度合いはある程度、コントロールしていたが――そこにこれだ」

 ローフェは腹部の傷を擦って、眉間に皺を寄せた。

「あんたの考えでは、誰かが街に潜り込んで、噂を広めた、と」

「街の中にいるものの可能性も考えたが、皆が皆、唐突に魔女の噂をしていた。だが、侵入の形跡はない――私も、イェルククの民全てを常に注視することはできないから、どこから噂が流入したかも分からない」

「ローフェ、ちょっとこっち見てくれる?」

「――ああ」

 ローフェの目の奥を覗き込むと、強い意志が感じられる。

 これならいけるかもしれない。私はマスクを取り出した。

「ローフェ、私の力は――人の意思や願いを代理人として叶えること。でも、所詮は代理人だから、困難な願いには想いの強さが必要になってくる」

「それは――まるでメルネポーザの神話のようだな」

「私の名前はそこから来てる。けど力の由来は違うよ」

 私は、彼の目を覗き込んだ。ああ、目の奥が痛くなるし、身体の感覚がおかしくなるから、このレベルのものはあまりやりたくないんだけど、やるしかない。

「ねえ、それを強く願って。イェルククの民を全て感知して、情報を掴みにかかる」

 私は、眼からじわじわと、水面のようにして浮かぶ願いの欠片を慎重に引き上げる。

 ――すべ――て――監――視――だが――。

 欠片から伝わる力は大きいが、その振れ幅が大きい。いつもは明瞭に聞こえる声が途切れ途切れにその想いを述べる。

「さすがに大仰なことすぎる、もって一分ってところ。死に際の人間ならまだしも――」

 これで、行けるだろうか。ナナに繋がる何かを掴めるだろうか。ここで得られなければ私たちは永遠にナナを失うかもしれない。

「繰り返しやるのはダメなのか?」

 渋る私を見て、疑問に思ったのか、彼はそう尋ねた。

「それができたら苦労しないんだよね。想いっていうのは抽出できて一度だけ。願いが叶えば、意思は弱くなる。治療にはすごく向くんだけどね。切実な願いが絶えないから。でも、やっぱり効果は薄くなるよ」

「情報が得られなければ、私が術の行使をしよう。できればやりたくない術だから――何か掴めるといいのだが」

 彼に目を合わせると、覚悟と嫌悪が同居しているようだった。彼は――本当にそれを使いたくないらしい。だが、それをすると、私に冷静に伝えてきた。

 じゃあ私がこんなことで足踏みするのは馬鹿らしい。

 私は願いの欠片を煙管に落とし、火を点ける。すぐに、煙が立ち上がり、私の吐いた煙が部屋中を覆った。

「不思議な光景だな――煙管とは」

「まあね――面白いもんでしょ」

 軽口を叩いた途端、ひどい眩暈と頭痛がした。初めて煙草を吸った時はあまりにひどくて、今後吸わないと誓いを立てたものだけれど――これは、それを大きく超えてくる。目の奥に塩水を注ぎ込まれて、脳まで浸されて、痛みがじくじくと続く感覚。それと一緒に情報が幾つも入ってくるものの、今、処理するなんて無理な話だ。私はベッドに倒れ込んだ。

 一人、二人――いや、そんな概念じゃない。数とかじゃない。個とかじゃない。全体が見えているんだ。世界がそのまま――ああ、世界ってこんな形をしていたんだ。あれはただそこにあるだけで――ああ、駄目だ。頭がくらくらする。私は、頬の内側を噛んで正気を保つ。全能感でおかしくなりそうだ。

 私は、ひとしきり苦悶し、落ち着いた頃合いに、ローフェから水を貰った。水筒から湧き出る水をがぶがぶと飲み下しながら、頭を冷やす。

「ダメだ――要領を得なさすぎる。イェルククの人間、五十六人のそれぞれの動きは確かに見えたけど――だとして、おかしなところはなかったよ」

「なんだと――おい、メルン。今、何人と言った」

「えっ、五十六人、だけど」

 ローフェが急に身体を起こした。

「ちょ、傷が開くって――」

「イェルククの民は六十と二、だ。私が来た頃に、六十と一、その後にナナを含めて六十と二。変動はない。私とナナを差し引いても六十のはずだ」

「待ってよ、それ、気づかないわけないでしょ」

 ローフェの瞳がひどく揺れている。そうだ、それこそ彼が一番そう思っている。彼がいつから治安官としてこの街にいるかは分からないが、少なくとも四年以上はこの街を見ている。なのに、それを欺き続けるなど――。

「メルン、観測した者の名前を一人ずつ述べてくれ。いなかった者の名前を炙り出す」

 彼は捲し立てるように言った。常に冷静を保っている彼が、ひどく取り乱しているようだった。だが、彼の判断に誤りはない。私は頷き、名前を上から述べていった。名前を述べるほど、彼の眉根がぐしゃぐしゃに折った紙のようになっていく。

「いなかったのは――私が違和感を覚えていた者たちだ。習慣が突然に変わり、それが持続した者たち――。イェルククの民が、そう一斉に外に出ることはあり得ない。習慣だからだ。明日の農作業があるから、それの手が抜けないから――」

 ローフェはしばらく目を閉じて、首を振った。

「私も全ては見張れない。『掟』は人を縛るのが目的ではなく、個人の多くを明かすことは不可能だ。その信条があったが故に、君も詳細な情報が得られなかったのだろう」

「だけど、意味はあったね」

 私は右頬を擦りながら答えた。まだじくじくと痛むし、血の味がちょっとする。ローフェは頷き、また、深く深刻な声を上げた。

「一人だけ――いたのだ。私が、違和感を覚えていながら、名前が挙がったものが」

 彼は、目を伏せ、その名前を告げた。それはこの街に来て最初に聞いた名前――。

「門番の、ゲルファーガだ。私は治安官として、彼を重要参考人と判定し、彼の全ての情報を引き出す」

 そう言って、術を行使したローフェの顔は――みるみる真っ青になっていった。

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