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第三十一話

「久しぶりに来たな――」

 気づけば私は、あの庭に居た。そこでは白い貴婦人が忙しなく何かを拾い集めている。彼女は私の存在に気づいたのか、顔を上げて、いつもの貼り付いた微笑みを見せた。

「懐かしい香り――ああ、あなた、あなたのこと、私は最近ようやく覚えていられるようになりましたの」

 彼女のその声から伝わる高鳴りに私は驚いた。相変わらず目から汲み取れる感情はないし、その笑顔も無機質ではあるものの、何かを感じさせる要素が現れてきた。

 これが良い傾向であればいいのだが。私は彼女に尋ねた。

「こんにちは。ねえ――あなたのこと、いい加減に名前で呼びたいんだけど」

「あら、嬉しい。いいですわよ。私の名前はアンテレス。アンと呼んでくれても構いませんわ」

「じゃあ、アン。アンって呼ぶよ。ところで、それは今――何をしているの?」

 私が彼女に近づこうとすると、

「待ってくださいませ、メルンさま」

 ぴしゃりとした声だった。あまりに強い声に、なにかを考える前に、足が止まる。これは結果的には正解だった。彼女が拾っていた緑色の種――これが私に向かって蔓を伸ばし、その鋭い先端を差し込もうと動いていたのだ。まるで獰猛な動物の牙のようだ。唾が勝手に喉を通った。

「ごめんなさいね。この種はどうにも危なくて、最近は気づいたらこんなに。私はもうこの種を作ってないのに、最近増えちゃって、もうどうしようかどうしようかって――」

 彼女は種を拾い集め、手持ちの籠に入れていく。種は、彼女には敵意を示さず、私が知っている普通の種として、ただの物体としてしまわれていく。

「ああ、なんででしょう。こんなに溢れちゃって――ああ、なんででしょう――」

 彼女は言いながらその種を、指輪のついた奇妙な生垣の辺りに撒く。種は生垣に纏わりつき、しかし、まるで弾かれるかのように勢いよく庭のあちこちに散らばっていく。

「ああ、また――どうしてでしょう。ここに置いておけば、大人しかったのに――」

「待って、アン――。それをいつも、その生垣に?」

 貴婦人は振り向き、たおやかな動きで頷いた。

「ええ、そうです。種はずっと前からたまに散らばってたんです。ですから、私、ここの生垣にこの種を撒いて、そしたら種は落ち着いてくれたんです。かれこれ、四年ほど――ああ、四年ですって! やはり、私の頭がはっきりしてきたようですわ。ああ、なんて喜ばしいことなのでしょう、ああ、なんて――」

 しばらく彼女は悦に入っていたが、また慌てて種を拾い集める。

「ですけれども、急に増えてしまって、そしたらこの生垣に落ち着いてくれなくて、ああどうしてなのでしょう。どうしてこんなに増えてしまったのでしょう――」

 その時だった。周りの生垣から、あの草で出来た人間が涌き出し、その身体から雪崩のように緑の種が溢れだす。あまりに一瞬の出来事だった。その奥に、生垣の奥に、人の手を見た気がした。気がして、それに気を取られた。

「しまった――」

 種は地に落ちてようが、宙に舞っていようが、容赦なくその牙を剥く。

「ああ、メルン様! お目覚めくださいませ――!」


 私はベッドから飛び起きた。ひどい息切れを起こしている。呼吸を落ち着けるために煙管を取り出し、その煙を吸った。二度か三度、深く煙を吸った後、改めて自分の身体を確認した。特に外傷はない。夢での傷はそのまま現実での傷だ。油断した。

「メルンさ――」

 私は、その時、我が身ばかりで重要なことを忘れていた。あの奇妙な生垣が暗示するのはナナのことである。そしてあの種が暗示することは――。

「ナナ! 大丈夫――」

 ベッドに仰向けで苦悶の表情を浮かべるナナは――その両手が麦の穂になっていた。急いで袖を捲って確認すると、肘から下が、無数に束ねられた麦になっており、呼吸に合わせて両手の無数の穂がさわさわと揺れている。肘からはじわじわと出血が起きている――いや、出血においては、腕だけではなく、全身滲むような出血を起こしていた。

「まずい――」

 ダンヘルグの想いは今も働き続けている。新たな種を夢の中で弾いていたのもその結果だろう。だが、それでは追いつかないほどに新月病の患者が、その要因が増えている。

「ナナ、一つだけ。ナナがイェルククに降りたのはいつ?これだけ答えて――」

「よ、四年――前――です――」

「薬草を取ってくる――すぐに戻るよ――」

 私はマスクを着け、急いで小屋から飛び出した。迂闊だった。新月病の進みはそこまで早くなかったのに、この一晩でその症状を早めた。これは予定にない急激な悪化で、病状からはあり得ない現象だ。考え得るのは、生垣から伸びていた手――。

「新月病を、人為的に――まさか――」

 麦の新月病に起因するものが何か。あの新月病の構成は膿垂症によく似ていた。過去の自分の体験に併せ、何人もの患者を診てきたから、間違いない。その構成の類似性は出血に繋がると思っていた。だが、もし、もしも類似点が、媒介なのだとしたら。

「あの頃の私と同様としたなら――」

 麦の新月病が、そのまま、麦から伝染するものだとすれば――。そして、それが今までは抑えられていたとするのならば、その麦の場所は、一つしかない。

「ダンヘルグの家――倉庫か――」

 すぐに燃やさねばならない。だが、もう新月病は進行した。今は、今は急いで薬草を調達して、それから、事を起こす。この森には、薬草の群生地がいくつもあった。頭に入っている。全部だ。出血を抑えるもの、異物の侵攻を抑えるもの、ナナとの下らない会話――私は蔓に足を取られ、そのまま力づくで引きちぎろうとした。

 だが、蔓は意思を持つかのように絡みつき、私の足を縛る。

「なっ――」

 そのノイズには、見覚えがある。『信仰』の術――。

「くそ、なんだってこんな時に――!」

 私は、懐から赤い髪を取り出し、衝動のまま握ったそれを、戻した。

「ダメだ、これを使うわけにはいかない――」

 山一つを燃やし飛ばすことになる。ナナの身が危ない。ダンヘルグの新月の願いはもう力を使い果たした後だ。

「くそ、くそっ――」

 近くにあった石で何度も蔓を叩きつけるが、びくともしない。

「時間がないっていうのに――」

 私は奥歯を噛み締めた。周りの森全てが、私に覆いかぶさるように延び、威圧感を放っている。意識がじりじりと遠のいていく。

「禁域の術の類か――やられた――」

 意識を離すな。絶対に。


 異常が耳を劈く。居場所を聞いていなかったら、私はこの違和感を見逃しただろう。森全体に意識を張ることは無理だが、イェルククの民と客人であるあの二人に注目することは可能だ。

「まずい状況だ――なんだ、この感覚は――」

 メルンも危険な状況だが、それよりもナナの身が危ない。

 ――もしも何かあったらナナを優先してよ。

「約束は違えないぞ、メルン」

「あなた、大丈夫――?」

 監視室で共に過ごしてくれる妻――レリがそう聞いてくる。

「レリ、念のため、ここから出ないでくれ。必ず戻る」

「あなた――」

 私は、レリの目を見て、頷いた。レリもそれに無言で返す。

「どうか、ご無事で」

 私は再度頷き、ドアを開いた。

 即座に監視塔を出て、北の森へと向かう。目的地までは二分と四十七秒。

「間に合えよ――」

 『掟』は必ず、その力を約束する。その執行を約束する。

「借りるぞ、ユース――お前の穴だらけの過去の掟を」

 走る姿勢を形作り、身体感覚を術に併せる。

「『審判と治安の法典より第五十七、民を守る治安官を、何人たりとも阻害してはならぬ』」

 あらゆる術、物理拘束の無効化――。

「『審判と治安の法典より第六十二、民を守る治安官は、民に危険が迫っている場合、その現場に急行しなければならぬ』」

 移動および感覚の高速化――。時間がない、これだけで行く。術が二つまでなら、二分で感覚を合わせられる。これ以上は、時間とリスクが急増する。

「行くぞ――」

 この街に、異常を許すな。

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