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第二十九話

 私が問いかけると。ダンヘルグは目を伏せた。

「さすがは、ハウゼの医者だ。それも優秀な――神授医の指導を仰いだ者だ」

「おべっかはいいよ。私が知りたいのは真実とその理由」

 彼はグラスを片手で遊びながら、言葉を探している様子だった。

「難しいものだ。こういう時に備えて、私は話の筋を考えていたはずなのに、いざその時を迎えるとどこから話したものかと再び迷う。ああ、夜は長い。とはいえ時間は限られているし、メルンさん、あなたがこの数瞬で理解できることもきっとそれほど多くない」

 私は、ダンヘルグ同様、グラスに手を触れて、その縁を指でなぞり、言葉を待つ。

「イェルククは、もう長くない街だ」

 ようやく吐き出されたその言葉は、正に、喉に詰まったものを、締めあげて、絞り出したような心地だった。苦しげな、悲しげな響きであった。

「ナナの状態には気づいているか。彼女が隠しているものの正体は――彼女の口から聞いてあげてほしい。だが、一つ確かなのは、彼女はここに居続けてはイェルククの終焉に巻き込まれてしまう、ということだ」

 ダンヘルグはわざと抽象的な言葉選びをしていた。しかし、それは膨大過ぎる前提をまとめたが故のものである。私は、静かに頷くに留めた。

「彼女は、もともとこの街の者ではない。その者に、イェルククが終わるまで、負担を強いるというのは我々の信条に反することだ。どの街の者でもそうであるが、イェルククは純朴な民の集まりだ。自らが犠牲になることに関心はなくても、誰かが犠牲となることは強く拒絶する。それが――自分たちが与り知らぬものなら、なおさらだ」

「だから、ナナを外に逃がした、と。人攫いじゃなくてもよかったんじゃない?」

 ダンヘルグは、ああ、と頷き、琥珀の酒の水面を眺めた。

「そうだな。だが、イェルククに訪れる旅人は少なく、年端も行かぬ少女を連れていくなどという責を負う者はあまりに少ない。まともであればあるほど、そうはしない。だが彼らのような人間は金で動く。高額な依頼料を見せ、ナナを近隣の街まで運んでほしいと頼む。そして、再び戻ってきた時に、依頼料を渡す」

「確かに、馬車を持っている人間には破格の依頼だし、奴らなら飛びつくだろうね。でもそれを私が連れ帰ってきてしまった、というわけか――」

 私は酒をほんの少量含み、口の中で転がした。

「イェルククの作物は良質だね。私は薬草しか手にしてなかったけれど、麦の風味が強く活きてる」

「気に入ってもらえてなによりだ」

「だからこそ、イェルククの輸出入の禁止に関しては心から残念に思う」

 私はグラスを置き、背もたれに身を預けた。

「イェルククには作物以外の特産品はなく、文明の進み具合も低い。だからこそ、輸出入が禁止されるということは、イェルククに外部のものがいなくなるということ。あなたがいう終焉とやらへの準備はもう推し進められてたってわけだ」

「ああ、そうだ」

「とてつもない――とてつもないお人好しだ。周りの街に助けを求めれば、イェルククの特産品欲しさに寄ってくるところもあるだろうに」

「それでは、終焉は回避できないからな」

 ダンヘルグは変わらぬ調子で答えた。

「――で、私にナナを連れ出してほしいってわけだ」

「どこかの親切な旅人が連れ帰ってきてしまったからな」

「あれを無視するのは無理があるよ。街長」

 ダンヘルグの冗談に、私は苦笑交じりで返す。あまりに素行の悪い輩だった。

 私は、ドアの向こう、すでに眠っているであろうナナのことを想った。この街を抜け出し。外に広がる世界へと旅立ちたいと考える少女。しかし、彼女はそれをしなかった。機会がなかったから、というのも一理ある。だが、出ていこうと思えばいくらでも手段はあったはず。私には、彼女が自発的にこの街を出ないように思えた。

「いいよ、ダンヘルグさん。ナナを連れ出してもいい。だけど、彼女がついて行きたいって答えたら、だ」

 ダンヘルグは、ゆっくりと頷いた。

「ああ、いいだろう。もし、ナナが拒絶をするようであれば、終焉について話そう。明日の夜、イェルククを出た西の方に湖畔がある。そこで、全てを話そう」

 そして、その日。ダンヘルグは、新月病に冒され、帰らぬ人となった。


「これが事の顛末。ダンヘルグの奇妙な待ち合わせは、街の誰かに聞かれたくない話があったからだと思う。もしくは街の中ではいけないこと、だったか。何にせよ、ダンヘルグの目的もよく分からないまま、彼は亡くなってしまった」

 私の話を聞き、ローフェはしばらく目を閉じていたが、やがて数度頷くと、

「そうか」

 とだけ、返した。

「加えて情報があるとするなら――ナナが負っているなにか、は新月病の吸収にあると思う。麦の新月病は治まったわけじゃない。ナナの身体の中に巣くっているだけだ。でも、その限界が来ている――私はそう思っている」

「――可能なのか、新月病を肩代わりする、というのは」

「可能、というか実物がそこにあるから信じる他ない。私も、周りの病気を吸収する体質に関しては知ってるけど、それも一件だけ。新月病を吸収っていうのは前例がない」

「そうか――だが、ダンヘルグの口ぶりからすると、そのことを知ってはいたのだろう」

「じゃないと、あんな悲しそうな顔しないよ」

 私は煙管を取り出し、ミントの煙を吸い込んだ。どうにも、今になって感情が暴れ出そうとしている。ダンヘルグの願いは、仔細も分からぬ不明な一文だけれど、その本質は分かりやすい。

「街とナナ、両方救わなきゃって時に、自分の危険なんて顧みられないでしょ」

「今からでも、ナナだけ連れ出すというのも選択肢の一つだが」

 大真面目に言っているのだろう。私は、ため息代わりに煙を吐き出した。

「それは最終手段。手遅れになるかもしれないけど、ナナはそれを諦めないでしょ」

 私はまた煙を吸い込んで、空を仰いだ。極彩色の空が、この先には広がってる。

「――そうだな。彼女は優しい子だ」

 ローフェの言葉を聞きながら、私は首を振った。

「もっと単純。人は失ったものを何度も数えなおしちゃうんだよ」

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