翌日、ナナは早朝から目を覚ましており、書き物をしていた。私は立ち上がり、マスクを外して彼女に話しかける。
「おはよう、ナナ。調子は?」
振り向いた彼女の目は充血しており、決して上手く眠れたわけではないことが伺える。実際、夜の間、夢の中で彼女を見ていたが、寝返りを頻繁にし、落ち着かない様子だった。
「大丈夫です、メルンさん」
炎のように燃える激情は、そう長くは続かない。毒に蝕まれていたとはいえ、安穏とした生活があったナナであれば、それはより一層、そうであった。だが、彼女が安らかに眠っていたいとも願わないものだから、私にはどうすることもできなかった。
肩越しに見えた書き物の正体は、自分の症状に関する覚書であった。ハウゼの医者が書くものよりも煩雑ではあるが、それよりも詳細だ。
「メルンさん、これ、昨日はあまり見れなかったと思うので――」
ナナはそう言うと服をたくし上げて、腹部を見せた。その肌には、先ほど織物のように絡まっていた麦と同じものが食い込んでおり、侵食の割合は五割をゆうに超えている。
ずっと彼女にあった違和感、私は彼女の胸に手を当てた。ああ、やはり――。
「ナナ、その症状は、イェルククに来た頃から?」
「はい。四年前からです。それから段々と症状がひどくなっていって――この頃は落ち着いていたんですけれども」
話を聞きながら、ナナの目を見つめる、が――。
「大丈夫ですよ、メルンさん。大丈夫です」
私の狙いを悟っているかのように、彼女はそう目を逸らす。
――そんなわけあるか。その言葉は、彼女の決意ゆえに飲み込んだ。
しかし、ナナは成人ほどの年齢であるにせよ、まだ子供から大人になったばかりの未熟な少女だ。そうでなかったとしても――先ほどの光景は堪えるものがあるはずだ。その慟哭を、焦燥に似た形をした感情が、無理やり抑え込んでいるに過ぎない。
「わかった、悪かったよ、ナナ」
だが、今は、そう返すしかない。彼女にも尊厳がある。
「それにしても――この新月病は不明な部分が多い。ナナが書いてくれたこれを見ても――そもそも何が原因で病が発生しているかが分からない。当面はナナの症状を抑えることで、間接的にイェルククでの伝染を遅らせる。その間に調査を進めよう――」
「私も手伝います――」
そう言って立ち上がろうとしたナナを押しとどめた。
「ナナ。君は――新月病を解き明かすための大事な鍵だよ。だからこそ、今は休んでてほしい。君の健康状態が乱れると、新月病の正しい観測ができなくなる。耐えがたいかもしれないけれど――今はゆっくり眠っていてくれ。じゃないと手遅れになりかねない」
「――わかりました」
ナナは不承不承といった具合だが、賢い子だ。感情の昂りを押さえつけて、どうにか眠ろうとする意思が宿る。
――たくさん眠りたい、新月病を治すために。
私はマスクを着けると、その願いを煙管に詰めて、煙を吐き出した。ナナがかくりと瞼を閉じると、私はベッドに彼女を寝かせた。
彼女の身体から生えている麦に触れると、その呪いじみた病が、構造だけ分かる。ルダやローデスは、こんな診断もなしに、問診だけで私の症状を見つけた。ルダに至っては瞬間的に私の不幸を和らぐ治療を行いすらした。それを思い出す度、あの二人とは才能の種類が違うと思い知らされるのだ。だが、私が医者じゃないというのは、もう関係ない。
「私もこの街は嫌いじゃない。やれるだけやろうか」
私は立ち上がり、神事に使う祭器を探すことにした。イェルククの派閥は『信仰』ではあるものの、閉鎖的で、技術力はそこまで高くない。店を回ってみたものの、代用にすら耐えうるものはなかった。
私は夕暮れに傾いた空を見て、イェルククの外へと向かった。ダンヘルグがいた湖にはまだ昨日の灰燼が残っている。緑に満ちた草むらが微かに汚れていると感じるのはこれら灰の影響であるだろう。
――どうか、新月の夜を繰り返してくれ。
ダンヘルグの願いを吐き出した後、あの大炎上は発生した。ナナから聞いた話によればイェルククの街が新月病を早期に下した時のそれと同じらしい。だが、彼の願いはそれ一つに留まるものだろうか。私は、新月病のあの現象に対処するために、その願いを使ったが、ダンヘルグの願いがそれを期に始まったとしたなら――。
「人の願いを使うと、いつもこうだ。特に、今回は思慮する時間も分析する時間もなかったから、私の制御下にあったものは少ない」
だとして、ダンヘルグに悪意はなかった。プラスには働いても、マイナスに働くことはないだろう。私はダンヘルグの亡骸――完全に灰とボロボロの骨しかないが、それを掬い上げて、空いた片手でマスクを着けた。
灰の中にはきらきらと光る想いの残滓がある。
ダンヘルグは最期に私の呼びかけに応えてくれた。彼に意識はあったのだ。意識があるということは周りの状況も把握できていたはず。彼はナナを認識し、ナナのことを想ったに違いないのだ。
――ナナがこれから先、健やかであるように。
「あった。これだ」
一等煌めきの強い欠片。それは紺碧の宝石のようにも見え、夕陽の光を濾し取り、青い影を私の手に落としていた。残滓を見つめ、その想いを覗き、改めて求めていたものに間違いないことを把握した。
「これでナナはしばらく平気だな――」
だが、あくまでも想いによる力は一時的なもの。冒され続ける彼女の身体を抑え続けることはできない。それまでにケリをつけなければならない。
「で――あんたらは、一体何をしに来たの。ダンヘルグの仇なら、お門違いもいいところだけれど――」
ダンヘルグの想いをしまい込むと同時、私は身体を右へと傾けた。左の耳で風の裂かれる音を聞きながら、天地の反転する感覚がする。私は側転から態勢を整え、背後に立っていたであろう奴らを見据えた。数にして三人。手には農具を握っている。
気配からしてイェルククの街の者だが、何らかの力により、その存在が靄ついていた。
「これ――『信仰』の力か。まったく、これじゃあ医者ごっこも出来ないじゃん」
靄ついたその先から、ざらざらとした声が聞こえる。
「魔女が――! 去れ――!」
私はため息を吐いた。
「まあ、間違ってはないだろうけど、あんたら、昨日のあれ見てたってこと?」
返答は、振り上げられた鍬の一振りだ。私は軽く身体を傾けて、それをいなし、鍬を強めに地面に蹴りつけた。横に振ろうとしていた腕の動きが阻害され、相手の動きが一瞬止まる。私は煙を吹きつけ、そいつを昏倒させた。さらに追撃が来るかと思っていたが、彼らはただ面食らっていただけだった。視線を向けると、彼らはすぐ本当の靄のように消えていった。
「逃げられた」
私は、白いマスクを外した。ぶっ倒した奴も消えている辺り、気配を消すだけの単純な代物ではないらしい。私は煙管を取り出すと、ミントを入れ込み、煙を吹かした。
「話がややこしくなってきたな。この街、なんかある――」