私は身体に強い衝撃を感じながら、目を覚ました。気づけば私は、ベッドの上で半身を起こしていて、壁に掛かった外套が無機質にこちらを見つめていた。そこで、ようやく自分が、小説にあったように、飛び起きたのだと気づいた。
「いたた――」
急激に動かされた筋肉は、自らの力でその節々を痛めているのだろう。私は足や腰を擦りながら、外套を纏った。窓から空を覗き込めば、まだ満月がちょろっと傾いただけ。そんなに夜更けでもないが、人が眠り出す丁度いい時間ではある。
ダンヘルグから様々な話を聞いた。ルダを連れ戻すための手法や、イェルククにあったはずの新月病の原因。それに――
「ナナ、か?」
窓の外、イェルククの道を歩くナナの姿があった。その姿は、普段の快活さを思わせるものではなく、足を一歩、また一歩と機械的に動かすのみであった。私は、急いで部屋を出ると、ナナの姿を追った。とぼとぼと歩くナナに追いつくのはあまりにも容易なことだった。
「ナナ、どうしたんだ? こんな夜中に」
その小さな身体を震わせると、彼女はどんよりとした動きで振り返った。
「あ――メルンさん――」
薄く、気だるげに開かれていただけの目が、みるみると開き、そのまま目尻の奥から涙が溢れだす。私は彼女の足元に屈んで、目尻からぽろぽろと零れるそれを、ハンカチで掬っていった。
「メルンさん――私――私――」
瞳を覗き込むと――その心象は穏やかではなかった。彼女が何で悩んでいるのか、何を思っているのか。黒と紫が入り混じった闇が全てを覆っていて、要領を得ない。
「うん、大丈夫。大丈夫だよ」
私はただそう声を掛けて、その闇を凌ぐしかなかった。きっと、彼女の心の中に入り込めば、闇を無理やりかき消すことだって可能だ。しかし、結局、こうして症状を取り除いたりできないのだから、私はやはり医者に向いていないのだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、ナナの傍にいると、彼女は次第に落ち着き、私の涙拾いも必要なくなった。
「ごめんなさい、急に――」
「ううん、別にいいよ。せいぜいハンカチが一枚、使いづらくなっただけだ」
私の言葉に、ナナは、あはは、と笑ってくれた。
「ごめんなさい、それは――乾かします?」
「ハンカチ、指で摘まんで振ったりする? はい」
彼女は冗談で言ったつもりだったろうから、本当に乾かされると思わなかっただろう。私にハンカチを差し出された時に目を丸くして、
「えっ、本当にやるんですか」
「ナナが言い出したことだし」
彼女は不満そうな顔をこちらに向けたが、振るように促すと、しぶしぶハンカチを降り始めた。しかし、その間に楽しくなってきたのか、やがて身体でリズムを取りながら指揮者のようにその右手を動かし始めた。
「それにしても――よくダンヘルグに見つからなかったね」
「おじいちゃんはこの時間寝てますから。たまに、抜け出してるんです」
「危なくない? それ。」
「イェルククの人はみんな知り合いですし――それに治安官のローフェさんもいるから大丈夫ですよ。ローフェさんすごく強いらしいので」
「らしいって――。まあ、いいけど」
治安官とは、この街にあまり馴染まない響き――だと思えるだろうか。
「でも、みんなに見つかると怒られます。だから、最近はしてなかったんですけど――」
ナナはそこまで喋って、黙り込んだ。私は明後日の方向を向きながら話した。
「別に――いいよ。理由は言わなくても。人間、いろいろあるんだから」
「――ありがとうございます」
どんな顔をしているかは分からないが、明るい声ではなかった。
「そうだ、ナナ、ついてきてくれる? 私ちょっと用事があってね」
「用事――ですか?」
「うん。ダンヘルグと会う約束をしているんだ」
「えっ、おじいちゃん起きてたんですか――駄目です、怒られますよ」
そわそわとし始めたナナに、大丈夫と声を掛ける。
「ダンヘルグに言われたんだよ。ナナのことも連れてくるようにさ」
ダンヘルグが指定した場所は、イェルククから少し出た小さな湖であった。月と、その周りの星々を写すのが精いっぱいの水面は、しかし、澄み切っており、ガラスでできた高級な芸術品を思わせた。
ナナは、歩いている最中、ダンヘルグの話の内容が気になっているようだった。もっと言えば――思い当たる節があるようにも思えた。だが、彼女が勇気と決意で隠し続けているそれを、瞳を覗く程度で暴くのは、人道に反すると思った。もし真意が見えても、私は知らぬ振りをするだろう。なかったこととして、生きるだろう。
私は湖に着くや否や、辺りを見渡し、人影を見つけた。危険は少ないとはいえ、ここはイェルククの外だ。ダンヘルグにもナナにも何かあられては困る。
「ダンヘルグ、来た――」
しかし、それは、まだ、人の形を取っていただけのものであった。
「ナナ! 下がれ!」
「えっ――」
その背格好はダンヘルグのもので間違いはない。だが、その皮膚を突き破り、幾つもの麦の穂が風に揺られてたなびいている。振り向いたその目に詰まっているのは、麦の実だけであり、正に蝶の複眼を思わせた。ポロポロと零れるそれは、地に落ちると、即座に穂をつけるに至った。
「新月病だ! 離れろ、ナナ!」
「や――そんな――なんで――おじいちゃん――」
ナナは、分かってはいたが、茫然自失の状態だ。
何かが起きようとしている。とてつもなく、嫌な予感がする。ダンヘルグの、麦の詰まった目からでも、それが読み取れる。私はマスクを着け、夢の中へと潜る。
現実と夢は相違ない。私にとってはそれが日常。だが、違うことがあるとすれば――。
「ダンヘルグ! まだ意識はあるか! あんたはまだ、この街を失いたくないはずだ!」
彼の姿がぴくりと止まる。しかし、それに呼応することはなく、地に落ちた麦の穂はそれぞれが厚く織られた麻の布のように形を成し、まるで流星群が昇るかのように、イェルククの街へと飛んでいく。
「ダンヘルグ――!」
私は、必死でその目を覗き込む。所詮、私は旅人だ。医者にはなり得ない。
病は、いつだって本人が治さねばならない。ギリギリまで、そうなのだ。
――どうか、新月の夜を繰り返してくれ。
その声は、物理的に聞こえたわけではない。心の中に、ふと浮かんだ言葉だ。私は即座に手の中を確認すると、そこにはしわがれた老人の目が握られていた。これがダンヘルグの想い。私はその目を握り潰し、煙管の先へと注ぐ。拳から零れる願いの欠片は粉となり、火を点ければ、本質を粒子と変えた煙が吐き出される。
「あなたの想いが、あなたを救わんことを」
私がその煙を吸い込むと、身体は自然と動く。
煙が吐き出された時、ダンヘルグを巻き込んで、全ての麦が燃え盛った。
メルンさんが煙を吐き出す。マスクの盛り上がりから煙が吹き出す様は、機械の街の御伽噺を思い出させた。煙を吐き出しながら、馬車が駆けていくというお母さんが聞かせてくれたお話。でも、メルンさんのはもっと、神秘的、とでも言うべきものだった。
変化はすぐに現れた。
天高く昇り詰め、鎌首をイェルククへともたげていた麦の蛇たちは、突然に燃え上がって、流れ星の零した光のように、夜空の中へ煌々と散っていく。新月病に呑まれてしまったおじいちゃんの姿も、赤く燃え盛る炎の中に見えなくなっていく。
私は広がる光景があまりに夢のようで、訳も分からず、ただその場にへたり込んだ。だけど、ここにあるのは絶望ばかりではない、そう思った。おじいちゃんが聞かせてくれた逸話。新月病が初めてイェルククを襲った日。その新月の夜は、呪われた麦がひとりでに燃え盛り、イェルククは難を逃れた、と。
明かるものが月ばかりになったころ、炭が雪のように降りしきり、その中には白い仮面の彼女が立ち尽くしている。彼女の目の前にはもうなにも――。私はふらふらとそこに近づいたが、世界がぐるりと反転して、頭の中も空っぽに消えていった。
「ナナ、大丈夫?」
彼女の声で気がつけば、私はメルンさんに身体を抱き起されていた。
そのマスク越しに、メルンさんの瞳が所在なく揺れそうになっているのが見える。
「ねえ、メルンさん――。私、この街を守りたいって、そう言ったじゃないですか」
彼女はマスクを外し、目を伏せて頷いた。どういうわけか、目は閉じたままで、でも、すごく心地よく、今まで体感した感情の中で、最も尊いものの一つだと思った。黙して私の言葉を待つ彼女を見て、私は意を決した。
「私の身体の中で、イェルククの新月病は今も蠢いています。そして、私の身体だけでなく、新たな犠牲者が生まれることになりました。このまま、イェルククが滅びるのは――私が望むところではありません。メルンさん――私たちを、救ってはくれませんか」