「それじゃあ、ここら辺かな」
メルンさんを宿の近くまで送ると、もうお日様は沈んでいて、イェルククの街は虫と植物が静かにさざめいているだけだった。その中、コツコツと、メルンさんの靴だけが音を鳴らしている。
「ナナ、明日も、案内してくれる?」
「うん、もちろん!」
私が出した声は上ずったけれども、メルンさんは微笑みかけてくれる。
「そうだ、ナナ。これ、あげるよ」
「――これは?」
メルンさんがくれたのは精巧にできた指輪だった。金属を変形させたものかな。
「お守りだよ。それ着けといてね」
「えっと、ありがとうございます――」
お守りが必要なのは旅を繰り返しているメルンさんのほうだと思ったけれど、私はそれを指にはめて、月光に照らして――
「あんまりよく見えないや」
「そりゃ、夜だからね。家の中ででもゆっくり見るといいよ」
そう笑うと、メルンさんは少しだけ真剣な表情になった。
「ね、ナナ。もし気が変わったら、いつでも声をかけて。旅に出たいって」
その言葉は、本当だったらすごい嬉しいもののはずなんだけれど、私の胸の奥はぎゅうっと締められて、息が苦しくなる気がした。だけど、メルンさんの目が細められるのを見て、慌てて笑顔を作った。
「ありがと、メルンさん」
メルンさんが宿の中に入るのを見届けて、私はしばらくぼーっとしていた。メルンさんはどこか新しい所に泊まるのはもう慣れっこなんだろう。メルンさんの部屋の灯りは一瞬だけ点けられると、すぐに消え、暗いままになった。
私はその後もしばらくそこにいて――冷たい風に身体が震えてから、ようやく自分の家に戻るつもりになった。
本当は、メルンさんの誘いはすごく嬉しかった。
「ねえ、ナナ。私と一緒に旅に行けるとしたら、どうしたい?」
行けるなら、行きたい。メルンさんの旅の目的はまだ知らないけれども、もしかしたら苦しいこともたくさんあるかもしれないけれど、それでも私は自分の好奇心を、この焦ってばたばたとする心を、旅でしかどうにかできないということを分かっている。
でも、行けない。私は、イェルククから出ちゃいけない。
私が家に帰ると、おじいちゃんが安楽椅子に座って、ゆらゆらと揺れていた。
「おかえり、ナナ」
「ただいま」
私はおじいちゃんの顔をよく見れなかった。照れくさい? それだけじゃない。おじいちゃんがせっかく私にプレゼントをくれたのに、いらないと、そう言ってしまったことが苦しいんだ。
「ナナ、メルンさんと行かなくていいのか」
まだ何も言わないうちに、おじいちゃんに聞かれて、私は身体を縮ませた。
「はは、ごめん、ごめんよ、ナナ。驚かせたかい」
安楽椅子から立ち上がったおじいちゃんは、私の前にゆっくりしゃがみ込んだ。
「ご、ごめんなさい、わたし――」
「いいんだよ、ナナ。おじいちゃんも、ナナのことをちゃんと考えてやれなかったね」
その言葉に喉がせり上がって、熱いのがそのまま目に上ってくる。
「わたしっ――おじいちゃんのこともすきだから――」
「泣くことはないんだよ。私はナナの幸せが一番なんだから。ナナは優しい子だね」
違う、違うの。私はきっと優しいわけじゃない。違うの、おじいちゃん。
でも、そんなことは言えない。私は涙と一緒に言葉も呑み込んだ。
「ほら、今日は着替えて、もう寝なさい。明日もメルンさんのこと、案内するんだろ?」
「うん――」
袖で涙を拭きながら、自分の部屋へと歩いていく。私は、おじいちゃんに悪いことをしてしまった気持ちもあったけど、それ以上にきっと悔しかったと気づいて、また抑えてた涙がぼろぼろと溢れだした。
私は、服を脱ぎ、自分のお腹を見た。
お腹から胸にかけて――まるでほつれてしまった靴下かお洋服のように、ざらざらとした穂が線状に見え隠れしている。私の身体はところどころ、昔からこうだ。この街に来た頃からこうなってしまった。皮膚の代わりと言わんばかりに、繊維質な黄金色の植物が、私の肉を覆っている。指でなぞると、小麦の穂とまったく同じ感触がし、その指を嗅いでみれば、お日様の匂いがする。
この事を、私は、イェルククの皆に隠している。イェルククでは昔、新月病が流行っていた。人から植物が生えてきて、その身体がいずれ全部黄金色の小麦となってしまう。人が、食べ物になってしまう、怖い病気だったらしい。この病気のぞわぞわとするのは、その小麦はとんでもない速度で育って、イェルククを覆い尽くしたこと。
誰も、しばらくは小麦を食べれなかった。だって、亡くなったその人を思い出すから。だけど、小麦は最近になってまた作られるようになった。その新月病は私が来た頃にぱたりと止んだんだから。代わりに私の身体は、少しだけ植物のようになってしまった。
私が、ここから離れてしまったら、イェルククは無人の小麦の街になってしまう。そしたら、どうなるだろう。あの小麦が、もしかしたら世界に広がってしまって、世界の人が皆、小麦へと姿を変えてしまって、一人だけになってしまう――そんな夢を何度も見た。
「行きたくったって、行けないの――」
私の涙はぼたぼたと伝って、黄金色の穂の上を滑る。
「行きたかったよ――私――行きたかった――」
昔よりも、小麦の肌は広がってしまった。いずれ、私もああなるのかもしれない――。
「やだ、やだよ――」
憎らしいお日様の匂いが、掻きむしりたくなるくらい、いい匂いだった。
「やっぱり、何か関連はあると思ったんだ」
私はまた、あの悪夢に身を置いている。私の傍には白い貴婦人がいて、相変わらず生垣に水を加えている。
「関連、ですか?」
彼女はこちらに顔を向けないが、意識は向けてくる。私は、無駄を承知で話す。
「私の夢はいつだって、現実に関連があるからね。どうやら今回も同じだ」
「夢――あなた様は夢の中で夢を自覚できるのね」
「まあ、そうだね」
私は振り向きざまに彼女の瞳の中を見た。
――やはり、何も見えない。
普通であれば、目を見た途端、相手の感情や考えが流れ込んでくるものだが、彼女に関してはそれが感じられない。微かに感じる何かはあるものの、それだけだ。それだけで彼女に対する答えが出せるほど、私は優秀ではない。ただ、これの裏返しを考えれば、彼女に強い敵意や悪意はないということだ。この前のあれは――事故というにはあまりに大きなものだったが、そう納得するしかない。
「ねえ、あなた様。あなた様は、どこから来たのかしら」
「医者の街だよ。だけど医者じゃない」
「ああ、そうでしたわ。すみません、私、本当に覚える頭がなく――」
彼女はこの前と同じようなフレーズを繰り返す。悪夢を解明する鍵は、絶対に彼女が握っているはず。となれば、彼女のあの不可思議な言説を理解しなければならない。
「私ね、よくわからなくなってしまったのよ。心も頭も失ってしまったから」
身体欠損は見られないから、彼女のこの言葉は比喩と捉えるべきだろう。そうなれば何を頭と考え、何を心と考えているか、それを探らなければならない。
「ねえ、聞いていい?」
「頭も心も足らぬ私でよろしければ、なんでも答えますわ」
彼女は礼儀正しく、貴婦人らしい動きで一礼を、私に見せる。その動きは形式張っているというわけでもなく、美しくたおやかな動きで、しかし、それはあまりに機械的な印象を受けた。私の額に、冷や汗が浮かぶのがわかる。
「頭はどうして失ったの?」
「どうして――でしたでしょうか。頭を失ったことはわかるのです。私はずっと霧の中を感覚もなく歩いている気がしますから。私が話したことも聞いたことも、霧に溶けて失せてしまうのです。ああ、だからこんなにも水のやり方がわからず――」
「心のほうは、なにか覚えはある?」
「心ですか。そちらも同様でございます。なにかを感じているかもわからず、眠りに揺蕩っているような感覚がある次第で――解放されているような、しかし輪郭のないような、そのような具合ですわ」
彼女の言葉から汲み取れる情報はあまりに少ない。脳への損傷による症状にも似ているが、それがわかったところでこの悪夢の解明には近づけない。私はため息を吐き、あの奇妙な生垣に近づいた。
「ああ、また花を咲かせないのです。どうしてかしら。どうしてかしら――」
彼女はやはり表情を変えず、しかし、思い悩んだ声を発する。
奇妙な生垣の横に伸びた内の一つ――引っかかった指輪を見つめる。
「ほんと、どうしてかはわからないな」
私は、ナナにこの指輪を渡した。祭事にも使われるこの指輪は、どんな夢の中でもはっきりとその姿を示す。そう、この歪んだ悪夢の中でも、変わらずだ。
「でも、悪夢で変化があるのなら、やりようはあるはずだ」
「どうにかなりますでしょか、この庭は――」
感情の乗った声に私は驚いて振り向く。貴婦人の顔は相変わらずだが、今、確かに、本物の感情の気配があった。私は急いでその目を覗き込んだが――やはりなにもない。
私は、深く息を吐いて、ゆっくりと頷いてみせた。
「そうですか、よかったです――」
彼女は、ゆっくりと目を伏せ――そして私は悪夢からはじき出されるように目が覚めた。