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第二十三話

 私は肩で息をしながら、白いマスクを握っていた。辺りを見渡し、そこが木造の素朴な宿――私が寝泊りしている場所であることを確認すると、身体を起こし、マスクを腰にかけ直した。

「とんでもない夢だった――」

 久しぶりに、悪夢らしい悪夢を見た。それも泥人形が襲ってくるといった単調なものではなく、もっと複雑な背景を湛えた恐怖な気がした。だとして、悪夢には昔から抵抗の一つもないことを知っている――。

「そんなわけあるか」

 それは昔の甘い考えで、毒された習慣である。悪夢ではいつも無抵抗で、されるがままで。そんな情けないことを続けていたらルダを失ったことを、どうやらこの平凡な脳味噌は忘れてしまっているらしかった。

「私は――私はもうそれに抗う力は手に入れていたはずだ」

 ルダから受け継いだ物は天秤だけじゃない。この白いマスク――目の辺りに小窓が付いていて、口元は盛り上がった部分が二つ付いた、傍から見ればまあまあ不気味な代物。これによって私は夢と現実を自由に行き来できるようになった。そして、夢の中の自由も手に入れたはずだった。

 だが、私は、あの夢の中で戸惑い、恐れるばかりであった。悪夢だから、という理由だけじゃない。もっと質が違う恐怖――あの時点で戦ったとして、私にはどうしようもなかっただろう。

「まったく、なんだって言うんだ」

 私はしばらく、ベッドに座り込み、足を揺らしていたが、次第に心が落ち着き始めると空腹を感じた。腹の奥のもやつきと空っぽなのが重なり、私は腹をさすった。

「どちらの腹の虫も同じこと、何か食べるか」

 食事を取れば、全て治まる。そう言い聞かせ、私がドアを開けると、

「うわっ」

 ドアの向こうからナナが倒れ込んできた。慌てて手で受け止めると、彼女はしばらく手足をぱたぱたとさせたあと、私を見て、華やかな笑顔を見せた。

「おはようございます、メルンさん! 息ぴったりですね!」

「まあ――そうだね」

 私は反応に困り、苦笑をとりあえず返すと、ナナの身体の重心を元に戻した。

「急ぎすぎじゃない? 一体どうしたの?」

「いえ、あまり遅くなると、メルンさん、自分でご飯食べに行っちゃうかなって思って」

「あー、確かに」

「昨日は私、疲れてすぐ寝ちゃったので、約束もできなかったので、急いで来ました!」

「そっか。でもあまり慌てないように。怪我しちゃうから」

「はい!」

 ナナの返事に頷いて、ふと、抱えてた苛立ちが治まっているのを感じた。そのことに気づいて、自らの浅はかさに嫌気が差した。しかし、それを知らず、知らないから、ナナは私の手を引いてくれる。

「行きましょう、メルンさん! 今日はメルンさんに紹介したいところがたくさんあるんです!」

「はいはい、わかった、わかったよ」

 子供の無邪気さ、というのは救われる物がある。彼女の見た目は十五から十七歳ほど。立派な大人ではあるのだろうが、子供心を忘れないでいられている。私は、子供の頃から純粋さなどさしてない擦れた子供であったから、そも無邪気さが分からないのだが。

 彼女の振る舞いは、どことなくラーネのことを思い出させた。孤児院の皆が私の体質に気づき始めた頃、私に近づかないようにした時期があった。今にして思えば、あれは私の事を気遣っての行動だったのだと思う。だが、その程度の方法で避けられる体質なら、私はこんなに苦労はしていない。彼らの施策は無駄だったし、私は孤独になりかけた。

 だが、そんな折でも、ラーネは相変わらずの調子で私の部屋に入ってきた。

「メルン! 遊ぼ!」

「びっ――くりした。そんな思いっきり入ってこなくていいじゃん。あとノックして」

「えー、いいじゃん! ほら、お庭行こ! 花冠、今日こそは成功させるんだから!」

「あまりお花摘むと、またセオ院長落ち込むよ」

 ラーネはその言葉を聞くと、う、と続きの言葉を濁した。

「それは――悪いことしたよねえ――」

 言いながら、私の横にぽふりと座ると肩を組んできた。

「その悪行に私を混ぜ込むのやめて」

 ラーネを引き剥がしながら言うと、彼女は駄々をこねるように反論する。

「えー! だってメルンも一緒に作ったじゃん! 一緒に怒られたじゃん!」

 セオ院長のお説教は、怒られてしまったという落ち込みよりも、悲しませてしまったという罪悪感の方が先に来る。

「ラーネ、メルン。お花は――長い時間をかけなければ咲かなくてですね。その――すぐに生えるものではないのですよ。毎日お世話をしてようやく育つので――。いえ、花を摘むなというわけではなく――できればもう少し、少なめにしていただければ、と――」

 しょげたセオ院長の顔と共に、謝意が喉元までせり上がってくる。ほんと、悲しそうだったな、セオ院長。しかし、ラーネにとってあれは、怒られた、という判定なのだ。たまにこういう配慮の欠けが、たまに心配になったりする。

 私はため息を吐きながら、ラーネの疑問に応えた。

「ラーネ、放っておいたら全部の花を摘んだでしょ」

「うん」

「私がそれを止めてたの」

「うん? でもメルン楽しそうだったじゃん」

「それはそれ。これはこれ。とにかく、セオ院長の言う通り、お花摘みはしばらくナシ」

 そっか、とラーネが顔を伏せ、しかし、すぐに顔を上げた。あまりに勢いの良い行動に私は思わず身体を仰け反らせた。

「じゃあお花の種を蒔こう! セオ院長のお手伝い!」

「それは遊びなのかなあ」

「メルンとだったらなんでもいいの! ほら! そうと決まればすぐ! セオ院長に!」

 私は立ち上がったラーネに手を引っ張られ、部屋から連れ出されてしまった。

「セオ院長、今忙しいと思うけどな――」

「いいの! セオ院長だったら許してくれるから」

 確かに、セオ院長は自分の余裕のなさで人に八つ当たりをするような人ではないが、当時の私には命の恩人も同様で、遠慮するような気持ちも大きかった。いや、ラーネもそれは同様だったはずで、しかし、それを彼女は気にしなかった。

 孤児院の中を走り抜ける。木の床が張られた宿舎を抜けて、石造りの教会の廊下で転びかけ、それでもラーネも私も手を離さず。

 すれ違う子供たちや孤児院の職員は、同じような目を私達に向けてきた。それは私の怪我を心配するものであり、私から距離を置く目でもあった。私の足は、まるでその視線に固められたかのように鈍くなり、ゆっくりと速度が落ちていく。

「メルン? 疲れちゃった?」

 気づけば、ラーネの手を離し、私はその場に立ち尽くしていた。

「いや、その――ラーネは、なんで私と遊びたがるのかなって。私は、周りの人の怪我や病気をもらってしまう。だから、皆、私から離れていく。でもラーネは別じゃないか」

「うーん――」

 ラーネは少し考えたあと、こう答えた。

「だって、メルンは、ごめんなさいって言えば許してくれるから。それにメルン、どうせ怪我しちゃうなら、遊んで怪我する方がいいじゃん」 

 私は彼女の答えに、自分の悩みが馬鹿らしくなって、笑いが零れた。

「ラーネ――ラーネさあ――ほんと、なんていうか――いや、いいや」

 すると、ラーネはみるみる頬を膨らませていく。

「あ! メルン、いま私のことバカだって思ったでしょ!」

「いや――ラーネのそういう人のことちゃんと考えないとこ、どうかと思う」

「あー! 言ったなメルン! 私のこと『配慮に欠ける』とか、リースとおんなじこと言うんでしょ! なによ! それならあの無愛想頭でっかちなリースも同じでしょ! こんな一人で暇そうにしてるメルンのことほっといて、今日もどうせまた変な本読み漁ってるんだし!」

 ばたばたと暴れながら駄々をこねるラーネの姿に私は大笑いして、彼女の特徴的な声が、その大声が不幸にも、

「悪かったな、変な本ばかり読む、頭でっかちで無愛想な兄で」

 不機嫌そうな兄をも呼び寄せ、ラーネは青ざめた。

「いや――えっと――これはメルンが――」

「説教が必要なようだ。俺はセオ院長ほど甘くないぞ。――大笑いする君も君だ、全く」

 ため息を吐きながら呆れた顔をしたリースに、私は涙を拭ってから応える。

「ごめんごめん――ほら、行くよラーネ。私も説教受けてあげるから」

「いやだあ! リースの言うこと難しくてわかんないもん!」

「また本でも読み聞かせるか、この愚妹に」

「えっ、ぐまいってなに?」

「バカ妹、という意味だ」

「あー! じゃあリースはぐあにだよ、ぐあに!」

「その場合は愚兄と呼ぶんだ、バカ妹め」

 私はこの愉快な兄妹のやり取りに、また笑いが堪えられなくなった。

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