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第二十二話

 夢の中の世界が、現実とリンクしていないパターンは久しぶりだった。意識していない場合は、更に珍しく、ここ数年私が目を開けると、そこは宿屋の天井ではなく、どこかの庭であった。色とりどりの花が咲き誇る花壇や生垣を辿っていくと、空には、昔よく見た気色の悪い空が広がっており、私は久々の嫌悪感を覚えた。

 花が両端に添えられた道を歩いていくと、褐色のじょうろを持った白い貴婦人が水をやっていた。鍔の広い帽子は彼女の目元を深く隠しているが、その口元からは予後の穏やかさにも似た緩さが見てとれた。

「あら、懐かしい香り」

 白い貴婦人は、ふわりと身を翻し、その顔をゆっくりと上げた。目は大きく、下がった眉尻が、例え無表情であったとしても、相手に微笑みの印象を与えるであろう。私は思わず一礼をした。

「こんなところに誰かが来るなんて久しぶり。あなた、お茶はいかがかしら」

 彼女が、腕全体を開き、その手の平で後ろの道を示す。道の続いた先、緑のガーデンテーブルの上に茶器が並べられており、気づけば言葉通りに、私と彼女は対面して茶の席に座っていた。私はそれに関しては、あまり疑問を抱かず、茶に口をつけた。

「あなた、どこから来たの?」

「どこから――ハウゼから来た」

「ハウゼ?」

「医者の街、って呼ばれてる」

 すると、彼女は両手を合わせたが、笑顔にしてみせたその表情は明らかに固い。

「ということは、お医者さまなのかしら」

「いや、ただの旅人だよ。確かに医者は多いけれど、街の人間全てが医者というわけじゃない」

「あら――ハウゼの人たちが全てお医者さまじゃないし、あなたもお医者さまじゃないのね」

「そうなるね」

 彼女は少し顔を伏せたが、微笑みはそのまま。私は茶を一口含んで、辺りを見渡した。

「綺麗な庭だね、あなたの趣味?」

「いえ、趣味というよりは、役割、ですね」

「役割? 庭師という風貌には見えないよ。むしろ庭師を雇っている立場じゃない?」

 彼女は、表情を動かさず、ただ首を傾げた。

「雇えたらいいのですけれど。なにせ、私の役目なもので」

「じゃあ、あなたは庭師ってこと?」

「容易い話が、そうかもしれません」

 彼女は膝元に置いたじょうろを撫でた。じょうろは歪みなく出水口を延ばしており、その光沢からよく手入れされた銅製のものだということがわかる。だが、逆に言えば、その綺麗さは新品同様であるようにも思えた。

「私はこの庭を見始めてかなり経ちます。結構ボロボロで、枯れかけた庭でした。今のように花は咲いておらず、触れればパラパラと崩れていく、まるで粘土のようで」

「そこからここまで戻したの。そりゃすごい腕だ」

「少し、見て回りますか?」

 立ち上がった彼女について行くと、どうやら庭には観賞用の花だけではなく、青々とした葉が茂る畑などもあった。かと思えば、黄金色に染まった小麦の穂が波のように繰り返し揺れているのも見えた。

「すごい。見て楽しむだけの庭というわけじゃなかったんだ」

「庭は――庭ですよ。ただ、庭でしかないです」

 私はその言葉の真意を汲めず、頭の中で言葉を反芻した。が、有効な答えが出る前に、彼女は次の場所へと歩き出す。しばらくはその背を追いながら、引き続き言葉の意味を探っていたのだが、彼女が見せたものに目を奪われた。

「ここばかりが、どんどんと大きく育ち、ここばかりが、花をつけないのです」

 奇妙な生垣だった。生垣の背は、私の背よりも大きく、しかし、縦に長い。その胴体の側面からはいくつも枝が絡まってできているのだろう、歪な形。異形の腕にも思える樹枝は天へと何かを請うように伸び、その全ての表面に夥しい数の蕾を付けていた。蕾はあちらこちらに向いており、花びらまで見えているものもあるが、そこから先、開花の予感を少しも感じさせないものだった。

「すごいな、これは」

 私の感嘆の声をよそに、彼女は話を続けた。

「私はここの生垣の全てを覚えているわけじゃない。だから、少し前まで、ここがどんな風だったか、なんてことは覚えてない。だけど、こんな風じゃなかったことだけはわかるわ。だって生垣を放っておいたら、もしくはいつも通りの世話をしていたら、こんな風になるなんてこと、聞いたことないでしょう」

「見たことはないね。こういう――ちょっとしたオブジェじみた植物は」

「ええ、だから困っているんです。でも、もう少しで花が咲きそうとも思うのです」

 彼女に向けていた方の目を、再び蕾に寄こす。やはり私にはそんな予感はしない。

「ねえ、あなた――」

 狂い絡まり、天へと伸びる生垣を背に、彼女は首を傾げた。

「植物の水のやり方って、知っているかしら」

 私は、その問いを、聞き間違いではないかと思った。彼女は、私に答えを求めるような調子で聞いてきたのだ。私よりも庭師である彼女の方が詳しいに決まっている。素人が差しはさむような答えはない。だから、聞き間違いかと思った。

「私ね、よくわからなくなってしまったのよ。心も頭も失ってしまったから」

 だが、彼女のその言葉は、私に水のやり方を聞いていたことを示した。しかし、私はそれよりも先に、気になってしまい、すぐに聞き返した。

「頭だって?」

 何を言っているか、よくわからなかった。

「心を失った――っていうのはわからなくもない。だけど、頭って――。今、あなたの顔の上にあるそれは、じゃあなんだって言うんだ?」

 しかし、彼女はその問いに応えず、質問を続けた。

「花がね、腐ってしまうの。花だけじゃなくて、その前でも。だけど、私には考える頭もないから、こうして水をあげることしかできないの」

 また頭の話が出てきて、私は微かに恐ろしい雰囲気を感じ、一歩、後ずさった。しかし彼女は私に目をくれるのではなく、私の左右の生垣に目を遣った。

「ほら、やっぱり――腐っていくのよ」

 彼女がため息を吐くと同時に、生垣から何かが飛び出すよう倒れ込んだ。

 一つ、二つ、三つ。ほとんどの間を開けず、ガサササと。

 足元を見遣ると、それは人のようだった。ようだった――というのは、この時点でできる正確な表現だ。人々の足は泥のように千切れており、そこからはどろりと黒く溶けた細長い葉が生い茂っている。目や口からは様々な花や見覚えのある薬草が、花瓶のように飛び出しており、そのどれもが腐り落ち始めていた。

「ねえ、旅の方。どうすればいいかしら。どうすればいいのかしら」

 人のようなそれは、少しずつ、音も立てず、しかし動いているように見えた。風のせいなのかもしれない。そう言い聞かせたが、肌を撫でる空気の流れはなく、逆立った鳥肌が気温を過敏に感じているだけだ。

「ねえ。どうしましょう。私は。私は、お花に咲いていてほしいだけなの」

 草の擦れる音がいくつも聞こえる。背後からも真横からも。

 私は、腰に掛けた白いマスクに手を添えた。

「どうして、こうなってしまうのかしら。なにも覚えてないの。なにも感じないの――」

 気色の悪い空と、この庭が、溶け合うように歪み、暗転した。

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