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第十九話

 見渡す限りの平地。地平線という言葉を聞いてから、それがどんなものか実感が湧かなかったのだが、水に宝石を沈めるように、太陽が平原に消えていくのを見て、ようやくその本意を理解した。レーチヤもハウゼも、山間にある街。どちらにいる時も、太陽の光を最初に食いつくすのは大いなる山々であった。

 私は、この光景に感動を覚えたが、ふと野営をするにはかなり都合が悪いことに気が付いた。旅を始めて、改めて女一人というのは危険であることを知った。鬱蒼とした山の中、洞窟の奥などで私は野営を繰り返してきたが、私に安全意識があったわけではない。これはローデスの教えだ。私は疑問に思いながらも、その教えを守ってきたが、それは常に正しく、何度か通り過ぎる野盗の衆を見かけた。また、野盗でなくても人間は街の外にあるだけで簡単に罪を犯す。それが『信仰』の出であろうが、『機関』の出であろうが、大差がない事を知った。私に撃退の術がなければ、ハウゼの街にとんぼ返りしていたところだ。

「都合のいい宿なんて、そう見つかるもんじゃないよね」

 私とて、それを知っている故、無策に歩いてきたわけではない。山間部を抜けてからずっと、街結道沿いに歩きながら野営地を探していたのだが、ここはあまりにも平らで、神が大地の創造を怠ったのかと思うほどであった。少々の花や雑草が生え、膝の高さほどの低木たちがざっくばらんにその領地を主張しているだけ。沈みかけの太陽の光が、悪あがきのようにくまなく周囲を照らしたが、そこに陰りはなかった。

「仕方ない。ここで野営しよう」

 私は道から少し離れた場所に、テントを建て、荷物を開ける。夕食は、干し肉に乾かした黒パン。運が良ければ野草の中から食べれそうなものを見繕う。

 幸い、この平原は私の安全の裏返しに、多数の野草が生えていた。私は近くに通る川で水を汲むと、適度に摘んだ野草をその中へと放り込んだ。泥を落とし、虫を取り。それらを鍋――と言っても小さく平らな物なのだが――に詰め込み、そのまま煮込んだ。火は目立つからあまり使いたくないが、料理のときくらいは仕方がない。どちらにせよ、こんな平原でキャンプ張ってる奴は目立って仕方ない。私は、改めて水を入れ直すと、干し肉を鍋に入れてからよく煮立たせて、軽く味を見た。

「うん、マシかな」

 野営で食う飯など、こんなものだ。調味料は出来るだけ取っておきたい。裕福な街なら補充が利くが、貧しい街では塩すら買えないこともある。だから、料理は食えるものを作れれば上々で、それ以上は浪費や贅沢の類となるのだ。

 気づけば日が沈み、草葉の影を作るのは、鍋の弱弱しい火だけとなった。私は、黒パンをスープに浸しながら噛み千切った。ふやかしてなお固さは残るが、この乾燥具合は好ましい。良く日持ちする。それに、水を使ってふやかしながら食えるのだから、贅沢極まりない食事だ。

「私はだいぶ幸福で、だいぶ幸運らしい」

 胸の紅いネックレスを摘むと、淡く赤い光が手の平に伸びた。

「黒パンも悪くないよ。孤児院の頃のものより、もっと固いけど、もっとおいしい」

 私は、鍋を空にすると、枯れた枝木で作った炎にそのまま水をかけ、そのままテントの中へと潜り、目の位置に小窓のついた白いマスクを被った。


 普通、夢とはどんなものを想像するだろう。

 私の夢は、昔と同様、いつも決まったものだ。だが、昔と違うのは、暗い空には星々が煌めき、私の足元には天秤の皿の他に、今日歩いた平原が広がっている。私はしばらくテントの中でだらだらとしていたが、それにも飽きてそこから這い出し、草原に寝転び、目一杯広がる夜空を仰いだ。

「ああ――牧歌的だな」

 星々の光は揺らめかない。ただ、月に照らされた雲がゆっくりと過り、私はそれを夜の羊の群れだと思った。羊は黒くないが、光ないところではどうしたって色を失う。微かな月光に照らされる彼らは、眠気の狭間でよたよたと彷徨う平和の象徴であった。

「絵の練習の準備とかしておけばよかったな。荷物にはなるけど」

 私は、懐から煙管を取り出して、くるくると回した。

「でも、私には絵の才能はからっきしだった。先生の代わりは務まらないね」

 私は横に転がり、平原の先に目を細めた。耳元から、地面を伝って音がする。

「それに先生は平和主義者で、いつも冷静で――」

 荷車を馬に引かせた二人組が、からからと車輪を鳴らしながらやってきた。彼らは道の途中で馬を止めると、私の方へと歩いてきた。その顔は泥人形のように溶けており、ゆらゆらと悪意を持った手が、棍棒を握る。

「お前らみたいな奴に八つ当たりしたことはなかった」

 私はおもむろに立ち上がり、マッチに火を点けた。揺れる炎に、悪意の一片も善意の一片も宿らない。煙管にそれを入れ込めば、本質を粒子と変えた煙が吐き出される。

 ローデスから聞いたこの話は――世迷言だと思う。だが、真言でもあると思う。

 私は煙管の煙を吸い、長く吐き出した。

 煙は、地を這い、草を伝い、ゆっくりと広がっていく。

「安穏とはいかないね、私はいつも」


 私は目を覚まし、マスクを取って、外套の内側に引っかけた。足元の、月が照らす平原に、煙の残滓が今もまだ残っている。辺りを見回すと、男が二人倒れていた。状態を確認すると、予定通り、昏睡に陥っていた。

 私は空を見上げた。月の位置はまだ高い位置にあるが、昏睡は夜明けまでは続かない。荷物を片付けると、男たちが乗ってきた馬車に乗り込む。荷台には、私も持っているような旅の道具から衣服や装飾品――。この男たちがしようとしたことになぞらえれば、盗品と見るのが筋だろう。気色が悪いので、できればさっさと捨ててしまいたかったが、この男たちにやってしまうようでそれも憚られる。これらの荷物は次の街で、寄付か、事情を話して保管してもらうなり頼むようにしよう。私は荷車に自分の荷物を放り込み、手綱を握り込んだ。

 男たちは未だ倒れ込んでいる。野垂れ死ぬかどうかは知らないが、できればそうであってほしいと思う。私は、審問官ではないから、直接手は下せないが。

「それじゃ、これはもらってくね」

 私は、マスクを付け直した。まだもうしばらくは眠れそうだ。


 夢から覚めると、馬車はかなり先へと進んでいた。果てしなく続いていたはずの地平線から、何とは把握できないものの、大きな影が生え始め、そこが街であることを予感させた。影のてっぺんから、さらに上へと視線を滑らしていく。爽やかに白んだ美しい朝焼けだ。時の流れを感じると同時、勝手に腹の虫が鳴く。

 私は馬を止めると、荷車から自分の荷物を取り出そうとして――違和感を覚えた。私の記憶と、荷車の荷物のシルエットが少し違う。いや、違うという確信はないのだが、とにかく、何か変だという感覚があった。私は、衣服の山から、雪か草木のごとく垂れ下がっていた装飾品たちを滑り落とすと、その山を掻き分けた。

 私の不幸中の幸い、といった感覚は合っていた。衣服の山の奥には、赤子のように身体を丸めた少女が一人眠っていた。少女の元より茶色い髪は、枝毛を分かれさせ、ボサボサと獣の尾を思い出させる。手足が華奢なのは、ここ数日の生活ではなく、天性のもの。

 彼女は、私が撒いた煙は吸っていないようで、穏やかな寝息を立てていた。

「盗品、か――」

 この辺りには、昔より人攫いが湧いて出ると聞いていたが、こうして実際に攫われた者を見ると、まだ客観的になれていた怒りが、頭のてっぺんから顔全体を覆うように垂れ下がってくる感覚がした。リースとラーネのことを思い出せば、余計にそうだ。

「だが、やはり幸いか。怪我もない。人攫いからは救った。それでいい」

 自分を落ち着かせるために、言葉にしてみたが、そう簡単に割り切れるような鬱憤でもなかった。怒りが治まらない理由には腹が減っているのもある。私がイライラしていると、ローデスはまず空腹を疑って、料理を作ってきた。それにさらにキレ散らかしたが――。実際、空腹を鳴らす腹の虫と、怒りを司る腹の虫は同じらしい。食べた後は憑き物の落ちた感覚だった。この少女のためにも朝食を拵えるとしよう。

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