牧歌的な青空。ハウゼの街には今日も清涼な風が吹いている。私は、荷物を纏めて部屋を眺めた。ここ数年は本当に平和で、今までの波乱が嘘のようであった。
「準備は済んだようだな、メルン」
「あ、ローデス。おはよ」
ローデスは担当患者がいなければ、朝はとてもだらしない。ぐしゃぐしゃの寝間着にぼさぼさの寝ぐせ。いつも握ってるパイプの代わりにコーヒーカップが握られており、だいたい中身は入っていない。寝ぼけて淹れることを忘れてるからだ。
そういえば、パイプで何を吸っているかを聞くと、答えは下らないものだった。
――あれは眠気覚ましだ。ここら辺の盆地で採れるペパーミントは質がいい。それを直接吸い込むと、脳天まで晴れやかに――なんだい、その顔は。
だが、今日は流石にしっかりとした服装だ。白衣は纏っていないものの、黒いシャツに灰色のパンツ。入院時代に見慣れたローデスの正装だ。
「なあ、やはり行くのか。来年の試験を待てば、神授医にだってなれるはずだ」
ローデスは惜しそうな声を出す。私は荷物を改めて確認しながら答えた。
「そうだね。何度か考えたよ。ルダ先生がいたら、きっとたくさんの患者を救ったはずだって。たくさんの新月病を治してしまうはずだって。だから、天秤を背負った私はその使命を継ぐべきだって思ってた」
でも、と私は言葉を続けた。
「ガラじゃないよ、やっぱり。それに私はルダ先生の足元にも及ばない。なら、私は私のしたいことをする。――これはローデスが教えてくれたことだよ」
ルダの失踪の後、ローデスは私を養子として迎えてくれた。どうしても医者にしたいのかと思ったが、彼女の口からは意外な言葉をかけられた。
――医者になろうとしなくてもいい。君は、君のしたいことをしろ。ようやく手に入れた真っ当な人生だ。ルダもそれを望んでる。
ローデスは苦笑いをして、頭を掻いた。
「私は、優秀な人材を手放してしまったことになるな」
「でも、あんまり残念そうじゃないね?」
「まあ、それは――嬉しいものだろう。子の自立というのは」
「よく言うよ。ここ最近、ローデスの世話をしてたのはどこの誰だと思う?」
「さて――忘れてしまった。私も年か」
私が、もう、と言いながら膨れると、ローデスは笑いを溢した。
「目的地は決めているのか?」
「いや。でも、ここから一番近い街だと――鍛冶の街に向かうことになるだろうね」
「かなり、あてどない旅になるぞ。君が使命感から、真っ当しようとしているなら――」
「いいの。私がルダ先生にもう一度会いたいって思ったから」
私の悪夢はまだ消えていない。天秤の上で、今も寝転がっていることが多い。変わったことと言えば、夢の中で自由に動けるようになったことだ。ルダの遺体は、確認されていない。おそらくあの極彩色の空の向こうに、先生はまだ居る。
「悪夢は解明しきらないと」
「ああ、そうだな」
ローデスは、この話をする度に、複雑な表情を浮かべた。彼女はルダが帰ってくることに、あまり期待を寄せていないのだろう。だがそれは、私が諦める理由にならない。
「そうだな。ハウゼの医者は止めても止まらん。何ヶ月、何年、何世代をかけても病を治す。身内ともなれば尚更だ」
その声に驚き、はっとするとローデスの顔が目の前にあった。人の目の中を、まるで脳味噌を観察するように覗き込んでくる。私は目を逸らして、また肩を叩いた。
「それやめてって言ったでしょ。まったく、すぐに人格を覗き込むんだから」
すまないと笑いながら、だが、ローデスは私の両肩を掴み、
「よく、顔を見せてくれ、メルン」
私は、かすかな抵抗感がありつつも、ローデスと目を合わせた。
しばらく、お別れになる。私もローデスの顔は記憶に残しておきたかった。
亜麻色の薄い瞳が、私の中を覗き込む。いつもこの瞳に覗かれ、望まぬうちに全てを見透かされたものだ。医者と患者の関係ならまだしも、共に暮らす者としてはプライベートに踏み込みすぎるとして、ローデスのそれは禁止していたし、私も目を見ることはなかった。こうして見ると、ローデスの瞳は陽だまりのような優しい暖かさがあった。
と、突然、悲しみや心配の感情が湧いてくる。いや、湧いてきたというより――
これは、ローデスの感情だ。
上手く説明は出来ないが、感情が、名前も付けられない感情未満の何かが複雑に絡み合っているのが分かる。ローデスは単に――私を心配している? それだけでない、私を試そうとしている。手塩にかけた弟子を、最後に自分の手で。瞳を覗くことで――それを読み取ろうと――。
ローデスがにやりと笑った。
「合格だ、メルン。君は、神授医と同等の技量を持っている。もし、来年の試験を受けて落第したとしても、私とルダに匹敵する。安心して旅に出るといい」
彼女はふう、とパイプを吸っていた時みたいに、深く、長く息を吐く。
「私も――今ので一安心だ」
ローデスの手から解放された私は、少しの間、呆然としていたが、
「試したな、ローデス先生」
非常に不服である。感動的なシーンかと思ったのに、どこまで行ってもこの医者は食えない奴だ。こんなギリギリまで抜き打ちテストを残しておくなんて。
「君から先生と呼ばれるのは久しぶりだな」
ローデスはそう言って、楽しそうにカラカラと笑った。趣味が悪い。
「もう知らない。私、行くからね」
私は荷物を背負い、家の玄関に立った。。こうしてこのまま、ここを出たら、きっとしばらくは彼女に会えないだろう。分かっているはずなのに、近所に買い物に行くようなシーンしか想像できなくて。旅に出るという実感が、どうにも湧かない。
「ああ、いってらっしゃい。たまには顔くらい見せたまえよ」
ローデスもこんな調子だ。もう少し言う事あるでしょ。そんな風に悪態をついてやろうと思ったが、寂しいのか、などと煽られても腹が立つのでやめた。
私は、うん、とだけ答えると、ドアノブに手をかけた。
あまり人と、こういうのどかな別れ方をすることはなかった。だから、こんな風に思うのだろうけど、きっとみんな、テキトーに別れて、それでも家族のことを思ったりするんだろう。それで、十分なんだろう。真っ当、か。やっぱりまだ分からないものだ。
ドアノブは、まだ回らなかった。
私は、真っ当な別れ方は知らない。けれど、別れというものはよく知っている。別れというのは最後の言葉を胸に、会えない人を思い続けることだ。話したかったことを話せなかったと後悔することだ。言いたかった言葉を伝える機会を、永遠に失うことだ。
「――どうした? 忘れ物でもしたか?」
だから、真っ当でもそうじゃなくても、伝えるべきことは伝えるべきなのだ。
「うん、忘れ物」
私は、ドアを開いた。ハウゼの白い街並みは、日光を反射して、きらきらと光り輝いているようで、私には眩しすぎる。ハウゼの爽涼な空気は、薬草の香りを運び、濁った肺を洗い流す。私には潔癖すぎる。ハウゼの医者は、病気を駆逐することだけ考えている。あまりに患者に真摯すぎて、時に自分の命すら懸けてしまうこともある。呆れた連中だ。
でも、共感もろくろくできない思想を持っているこの街に、リースは導いてくれた。最も呆れるような、馬鹿げたことをして、ルダは私を救ってくれた。私に真っ当な人生を与えてくれたのは、この街だ。
そして、ここには、いつでも帰ってこれる家があって――
「いってきます、お母さん」
私の家族がいる。
この街は、私の故郷だ。