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第十七話

「裁判の神、ユースが下した判決はこう。『被告は無罪。彼は五人を見殺しにしたが、彼の行為に悪意はなく、被告のとった行動は最良のもののうちの一つである。――以降、彼を『天秤』の紋章において傷つけることは許されない』。これが俗に言われるハウゼの大判例――通称、ルダの天秤。それからだよね。患者に緊急時において、救えるか否かの色が設定されるようになったのは。白は最優先。黒は――。そして、それ以来、ルダは最も優秀な神授医であるのと同時、最も優秀な神官となった」

 男は、身じろぎ一つせず、私の話を聞いている。

 彼の背中から見える刺青。それが全てを示す答えだ。

「その背中の紋章は、正しさの証明。同時に、私が都合の悪い存在であることの証明」

 振り返ったマスクの奥、狩人のような目が覗いている。

「でしょ、ルダ先生――」

 ルダは、改めて私の前に屈みなおすと、私の胸部を開いた。あまりに容易く、両開きの扉のように、ぱかりと。もう、準備はとっくに整っていたのだ。私は、気が抜けた。

「待っててくれてたんだ。やっぱ変わらない。ルダ先生はルダ先生のままだ」

 返答はなかった。もしくは答えられないのかもしれない。だから、構わずに話した。

「私は両親も不明なまま、山奥で見つかった。捨てられたんだと思ってた。でも、本当は違うんだろうね。土から生まれた神の失敗作――いちゃいけない存在」

 ルダは黙って聞いている。それでいいよ。

「神の失敗作を、神官が回収しに来た。事は、単純だったんだね」

 すると、ルダは手を止めて、こちらの目を覗き込んできた。狩人の目――ではない。彼は、私の人格を覗いているのだ。今、私はどんな感情なんだろう。今、私はどんな思考なんだろう。自分でもぐちゃぐちゃで、複雑で。でも不思議と落ち着いていて。

 そしてしばらくすると、ルダはゆっくりかぶりを振った。

「いや――違うよ。医者への道は遠いね、メルン」

 優しい声だった。いつも通り、いつもの調子。私は、眉根を寄せた。今更、そんな風に喋るんだ、この人は。ずっと積み重なった苛立ちが沸き上がる。

「口利けなくなったのかと思った。喋れるんだ。悪趣味な」

 ルダは私の悪態に答えず、自分の胸に手を当てた。

「メルン。君の病は心臓が原因だ。君の言った通り、君は純粋な人間ではないらしい。いちゃいけない――客観的に見れば、そうなるのだろうね。君の存在、特にその心臓は絶大な影響を現実に及ぼす。この世のものではない――それこそ、あの空に由来するような何かで出来ているんだろう」

「じゃあ、心臓だけ回収すればいいって話なんだ――持っていきなよ。ルダ先生はたくさんの人を救う。それならそれで――いい幕引きだよ。幸せだったし――」

 私は、目を横へと逸らした。恐怖がないわけではないのだ。だけれど、脇道には今までにしてもらった幸福な景色が浮かんでいる気がした。夢を見るように、ああ、夢を見るってそういうことなんだろう――。

 ひどく不快な、肉の千切れる音がした。

「――――っ」

 私は思わず目をつむった。心臓を抜き取られるのは、一体どんな感覚なのだろう。心臓は、全身に血を流す器官だということを聞いた。だとすれば、私の胸には、赤い湖でも出来るのだろうか。意識はどうなるのだろう。段々と薄れていくのだろうか。

 ――だが、死に向かうであろうおぞましい感覚は、いつまでも来なかった。

 私はおそるおそる、目を開く。

 ルダの外套には大きな穴が開いていた。胸の部分。身体の左側。心臓の位置。その手には赤く脈打つよく分からないものがそこにあった。そのリズムが、いつかの笛の音と一致する。あれは――あれは、心臓だ。ルダは、自らの心臓を引き抜いていた。

「先生――何してるの!?」

 ルダは、相変わらずの優しい微笑みを見せた。

「ずっと、思っていたんだ」

 彼は私の胸部にゆっくりと手を伸ばし、赤子を掬うかのように優しく私の心臓を持ち上げる。その極彩色の心臓は、機械仕掛けのようにカラカラという音を立てながら、脈動していた。そして、彼は、自分の心臓を、私の胸の中へと入れ込む。

「自分の命と、患者の命。天秤にかけることが出来たなら――」

 身体が熱く滾った気がした。体内に熱湯を流し込まれたかのような。汗が吹き出し、涙が浮く。頭から爪先までの感覚が研ぎ澄まされ、現実感が襲う。生きている実感が。

「僕は迷わず、自分の命をかけるだろうと」

 ルダが、もう片方の天秤の皿に足をかけると、ふわりと浮遊感を感じた。私は慌てて身体を起こそうとして、何度も後頭部を押し付けた。それほど勢いをつけても、私の胴体は愚か、手足の指一本も動かなかった。

「待って、やだ、先生――! 私はこのままで――!」

 先生が空へ、押し上げられていく。あの吐き気のするような空へ。

「待って――止まって――」

 どうしてこんな時だけ、天秤は沈むのだろう。ずっと、私を呑み込もうとした癖に。意識が薄れていく。いくら目覚めたくても、消えてはくれなかった癖に。どうしていつも私の都合のいいようにはしてくれないのだろう。

 どうして――いつもこのままにしておいてくれないのだろう――。


「メルン! メルン!」

 身体を揺すられて目を覚ますと、私はベッドの上で涙を流していた。

「大丈夫か、意識はしっかりしているか――」

 目を動かすと、ローデスが必死な形相で見下ろしていた。掴まれた肩から、指の感触が伝わってくる。その形が分かるほどに。私は、こくりと頷いた。ローデスは私の胸に手を当てると、ため息を吐き、安堵の表情を見せた。

 しかし、そのあと、目を強く瞑り、顔を伏せた。

「ルダは――どうした」

「あ――」

 私は、身体を起こし、事情を話そうと思った。なのに、言葉を続けられなかった。今までと違う、胸の中の鼓動が、嫌と言うほどに現実を突きつけて。求めていたはずの、真っ当な人生が、生かされたという呪いになって。

「うっ――あっ――」

 嗚咽しか漏らせない私は、それがひどく情けない気がして、またぼろぼろと涙が溢れてしまった。ルダは――自分の正義を貫いたのだ。大人はいつもかっこをつける。なのに私は、少しも強がれない。意地を張れない。泣くしかできない。

 ローデスは私を強く抱きしめ、背中をさすってくれた。

「せっ、んせ――先生が――私の代わりに――」

 肩に、強く力がかかる。痛いくらい、彼女の爪が食い込んで。でも、この苦しさが、今の私達には必要だった。ローデスの身体を強く抱きしめ、このまま、全てがどこかに行ってしまえばいいと思った。絶対に許されないけど、今だけはそうしたかった。ローデスの腕が、私の身体から涙を絞り出して、この心が綺麗になってほしかった。

 悪夢は、起きたら終わるものだと人々は言う。

 その通りだ。悪夢は起きたら終わるものだと思う。

 もうこれで、終わりになるべきだと思う。

 私の不幸を、皆が吸おうとするから。

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