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第十六話

 黒い雲はいよいよ厚くなり、雨の臭いは強くなってくる。バルデル医院の庭にもそれは例外なく香り、雨の予感を強くさせる。そんな中、燻ぶるような暗い赤髪を揺らし、ローデスは同じ白衣を纏う男に近づいた。

「ルダ、メルンが手がかりを掴んだ。これ以上、彼女には頼れない。安静は絶対だ」

「ああ。僕も同じ意見だよ。メルンには――無理をさせたね」

「マスクの男による胸部の侵食。メルンの悪夢の話とメルンの症状はリンクしていることは確実だ。現状の彼女は心臓周りがかなり脆い」

「ああ。外的衝撃には耐えられないだろう。ここからは僕の仕事だ」

 ローデスは、いつも通りのルダの雰囲気に呑まれそうだった。この男はいつもそうだ。何をするにも、この調子を崩しやしない。ローデスは深呼吸をすると、ルダの背中を強く見据えた。

「なあ、ルダ。君は覚えているか。図書館でメルンとした会話を」

「君も、いたのか」

「その時、君は確かにこう言ったな――心臓を狙われるなんて、と」

 ルダがローデスを振り返る。その目は、狩人の目をしていた。

「――ルダ。本当に心当たりはないんだな」

「ああ」

 曇り切った空が雨粒を溢し始めた。

 ぼたぼたと落ちる水の塊は、二人の身体をしたたかに打つ。

「夕立だね。早く中に入ろう。風邪を引いてしまう」

 ルダは、バルデル医院の方へと向き直り、そのまま歩き去ろうとする。

「ルダ、君を救うよ。同じことは繰り返さない」

 だが、ローデスのその言葉に、彼は足を止めた。その背中は濡れ、白衣が透けていく。

 浮かび上がったのは天秤の刺青であった。

「――――」

 ルダは、頭を下へ傾けた。その様は、背中の天秤を背負い、そして、息を切らしているようにローデスには見えた。だが、ルダから返された言葉は、

「ローデス、すまない――。僕は君を救えない――」

 その言葉に、頭の中で、過去の光景がフラッシュバックした。

「ごめんね。君とようやく一緒に働けると思ったのだけど」

「――ルダ!」

 過去の後悔を振り切り、手を伸ばした先。ルダはすでに庭を去っていた。


 ハウゼの東地区には、かつて彷徨う天使がいた。三四〇年の夏の頃。新月病が発見された東地区には封じ込めが行われ、人々の不安は高まっていた。その当時、神授医の数は少なく、対応できる症例も狭い。この封じ込めは、死の宣告にも等しいものであった。

 だが、東地区に葬儀屋が出入りすることは終ぞなかった。新月病は伝染せず、二週間と経たないうちに影も形もなく消えてしまったからだ。派遣された神授医たちは、誤診だったのではないかと首を傾げた。だが、人々は口々に言った。

「天使が、地上を彷徨う白い天使が、病を消してくださった」

 ハウゼの街は「信仰」に属する派閥。真偽はさておき、そのような話が出るのもおかしくはない。しかし、神は我らに強く干渉をしない。ただ、そっと水を向けるだけ。神授医はこぞって東地区を調べ上げたが、天使の姿は捉えられず、しかし、証言を得た。

「天使は、真っ白な姿で、妙な仮面をつけて街を彷徨っていた。夜な夜な動物を街から連れ去って、それを燃やし尽くしていた。生贄を欲したのだ」

 野良の猫から、飼われていた家畜まで。全ての動物が街から消え去っていた。その代価は確かに高くついたものの、命より高いものではない。しかし、愛玩していた飼育動物が連れ去られた者は、悲しみに暮れていた。あまりにも、無差別で、包括的だった。

 これに、一人の神授医が、現実的な推測を立てた。

「この新月病は、動物を媒介としていたのではないか?」

 そうだとして、それを暴く術はない。新月病の数少ない患者はすでに完治しており、彼らも天使の存在を崇拝するのみであった。様々な推測を伴いながら、彷徨う天使はハウゼの奇妙な語り草となり、いずれ風説とされた。

「だけど、天使は再び姿を現した。一度目は三四七年に――そして、二度目は私の前に」

 目の前の仮面の男は手を止めた。

 反応を見るに、私の考えていることは間違いじゃないらしい。

「調べたんだよ、必死で。ローデス先生に、後は任せろって言われたとき、今日が最後なんだろうなって思ったの。だから、必死で漁った。呪いのことじゃなくて、ハウゼの歴史を。だって、ローデス先生は、人を見抜く力はあるけど、人を騙す力はないから」

 男は、ゆっくりと立ち上がり、私に背を向け、空を見上げる。

「私なりに納得したんだ。だから、それを話してもいいかな」

 仮面をつけた首が、縦に揺れる――。


 ローデスは急いで院内に戻り、ルダの姿を追った。玄関先まで水滴は続いていたが、そこから先の痕跡は途絶えていた。

「なあ、すまない。ルダを見なかったか?」

 受付の看護師に聞くも、彼女は首を振った。

「いえ、ルダ先生はお庭に行ったきり、見てないですね」

 ローデスは手当たり次第、周りの者に聞き込みをするが、誰も、少しだけ目を離したその先、その一瞬の顛末を見た者はいなかった。

「何をしでかすつもりだ、ルダ――」

 頭に過るのは、三四七年の後悔の記憶だった。

 記憶には、いつも焦げ付いた臭いが伴い、黒焦げた炭の味は未だに舌に残っている。

 まだ、ハウゼの建築物の大半が木造であった頃。街を囲む山から切り出された木材はハウゼの建築を支えていた。だから、あの冬の日は、少しの火種で街が赤色に焼かれた。

「ルダ! 三番と七番の状態が危うい!」 

 ローデスは大火傷で次々運ばれてくる患者を介抱していた。ハウゼの大火事。この街の建物をほとんど焼き尽くし、白い建物へと変えさせた厄災だ。当時、まだ医者でしかなかったローデスは、他の医師団と共に患者を次々と運び込んだ。

 その当時、バルデル医院を代表して指揮を執っていたのは、不在のバルデルに代わったルダであった。ルダは的確な指示により、最も多くの患者を救ったとされた。しかし、

「ローデス。あの人たちは――もう手遅れだ。人員を他に――十二番はまだ助かる」

 その言葉は、ハウゼに暮らす者には、あまりに残酷な宣告であり、

「おい、何を言っているんだ――。君は――患者を見殺しにしろというのか――?」

 ハウゼの医者にとっては、拷問に近しい選択であった。

 黒いマスクからは、狩人のように細まった目が見えた。煤に塗れて、白かったはずの白衣やマスクは、真っ黒なものへと変わっていた。それが、その姿が、ローデスには死神に見えた。だが、彼はいつもの調子で続けるのだ。

「救える者を救わず、救えない者に縋る――それこそ、見殺しに等しい」

「ルダ――君はなんてことを――」

「じゃあ、言ってみてくれ、ローデス。一体どうやったら彼らを救えるんだ。今必要なのは誇りじゃない。矜持じゃない。――救える命を溢さないこと。現実的な話だよ。それが出来ないなら、従ってくれ。この一分一秒が、惜しいんだ」

「――――」

 ローデスは答えず、背を向けた。分かるのだ。ルダの言っていることが正しい等ということは。だが、生きてきた道が、ローデスを容易く納得させなかった。ルダに対して鋭い切っ先に似た感情を沸かせながら、ローデスはその指示に従った。

 そして、ルダは最も多くを救いながら、最も多くの非難を浴び、投獄された。

 面会に向かったとき、ルダは、気の弱そうな顔で、軽く笑った。

「ごめんね。君とようやく一緒に働けると思ったのだけど」

 ローデスは、文句の一つでも垂れてやろうと思って、なんなら今一度、医者としての矜持を突きつけようと思って、彼の元に訪れた。なのに、彼の表情を見た瞬間、その言葉を聞いた瞬間、自らが情けなくて仕方がなくなった。

「すまない――ルダ――。私が――私も――」

 だとして、自分に何が出来ただろうか。神授医でなかった自分に。

「いいんだよ、ローデス。予想できたことだ。それに、君まで巻き込んじゃいけないだろう。ハウゼの、バルデル医院、ただ一人の神授医はしばらく席を空ける。その座に収まれるのは君だけだよ。だから、これでいい。一番いい形だ」

「だが、君は――処刑をされるかもしれないのだぞ」

「安心してくれ。僕は必ず戻る――」

 ローデスは、泡のように浮かぶ過去を振り払いながら、ルダの部屋を調べ回った。棚の上は整理が全くされておらず、机の上には、青い絵の具の瓶も一緒に転がっていた。部屋にただ一つ置かれたイーゼルには、青空の風景画が残っている。

 ローデスは、机を掻き分け、全ての書類を確認して回った。その中に、ルダが普段持ち歩いている革の手帳を見つけ、すぐにその中身を開いた。

「待て――。メルンが――人間じゃないだと――?」

 ローデスは手帳の中身を素早く読み、舌打ちをした。

 だとすれば、ルダがしようとしているのは――。

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