私は確かな意識を保ったまま、天秤の上に載せられていた。最悪な空は、今日も変わらず極彩色を放っている。目を逸らしたかった光景。だが、今や私はその色の一つ一つすら克明に記憶するつもりでいる。呪いに繋がる手がかり、細い糸がこの鮮やかな絵具の中に紛れているのだと。しかし、気づけば、極彩色は白い天井へと変わっていた。
「なに――?」
慌てて身体を起こそうとすると、身体の筋肉――特に肘から先が突っ張り、悲鳴を上げた。私は身体をゆっくりと戻しながら、痛みを鎮めるように深く息を吐いた。
窓の外を見ると、すでに朝日が昇っていた。
「よく眠れた――とは言い難いようだな」
当然のように、ローデスはベッド横の椅子に座っている。だが、今日は書類ではなく私の表情へと目が向けられている。
「見れたか。悪夢の正体は」
「なにも。それどころか、夢なんてなかったみたいだった。目を閉じて、はっと気が付いたら、朝になってた。こんなこと、今までは一度もなかったのに」
そうか――とローデスは聞いたことのない声色を出した。
「それが、本来、眠るという感覚なのだ。祝うべきか、悲しむべきか――君の悪夢は、君の記憶に残らないようになり始めた、君は正常に近づいている、というわけだ」
ローデスは私の胸に手を当てると、軽くなぞったり、掌を押し当てたりした。
「だが、君の胸部は段々と薄くなっている。悪夢に取り殺される前に、転倒による事故死もあり得てしまうだろう。十分に気をつけるんだ」
「――止めはしないんだね」
今の私の状態で外出をするのは危険だ。それが例え病院の中であっても、転ぶなんてことはよくある話で。だが、ローデスは、少し微笑んでからこう答えた。
「それはそうだ。君は医者の目をしている。それもハウゼの医者の目によく似ている。自分の命の危機くらいでは医者は止まらん。――何ヶ月、何年、何世代かけたって私達は病気を駆逐する。ハウゼの医者というのはそういう生き物だ」
またそんなことを。そう思ったが、ローデスが真剣な表情で言うものだから、
「そう」
いつものような軽口を返すことができなかった。
「この病が治ったら、学校への推薦をしよう。君は必ずいい医者になる」
その言葉を聞き、自分の目の前に、暗く、照らされていない道があることに気づいた。自分の病を治した先、漠然と、幸福に生きてやる、だなんて思ってた。いや、それもちょっと違う。私は、今、生き延びることしか考えてなかった。呪いを見返してやろうと、二人の約束を守ろうと。だから、ローデスの言葉は妙におかしく聞こえた。
「明日には死ぬかもしれないんだよ、私」
ローデスは、気づいているだろう癖に、意にも介さず答えた。
「皆、同じ話さ」
「――それもそうか」
私とローデスは病室で毎朝のように顔を合わせては、呪いについて軽い意見の交換をした。特に進展はなかったが、ローデスは、前よりも医者への道を勧めてくるようになった。前からそうだったが、話の締めにはいつも医者の話をするようになった。重症だ。
ルダとは毎日会うわけではない。ただ図書館にふらりと現れては、話をしてきた。ゲブールの探索状況は芳しくなく、呪いを根本から断つのは難しいという結論はすぐ出た。金庫の街について調べてみるものの、その『信仰』は形ばかりのものであり、街に根付いた呪いなどは見つかりそうになかった。
「――たまには、庭に出てみたらどうだい」
胸に押し当てた手から、生々しいほどの脈動が伝わるようになった頃、ルダはそんなことを言った。私が伸びをして、背もたれによっかかると、ルダはさりげなく私の後ろに回ってきた。心配性なんだから、と言おうと思ったが、自分はそれほどまでに危篤であると思い直し、口を噤んだ。ルダの表情は、真剣だった。
「考えが詰まったら、文字はミミズのようにしか見えなくなるし、考えるのが気持ち悪くなってくる。そうなったら、どう頑張っても答えにはたどり着けないよ」
「ミミズっていうより、私にとっては蛆かな。もう文字自体が気持ち悪くなってきたよ」
「だいぶ来てるみたいだね。気分転換しておいで」
「先生は? ミミズまみれ?」
「いや、僕は慣れてるからね。――とは言っても、少し仮眠でも取ろうかな」
「そうしなよ。いったん、休憩ってことで」
私は立ち上がり、庭へと向かう。ルダは心配だったのか、提案したくせに庭までついてきて、私をベンチに座らせると、私室へと帰っていった。
空は、少し曇り始めており、その暗さから雨が降ることを彷彿とさせる。実際、遠くで雨が降ったのだろうか、舞い上がった土の臭いが微かに鼻をくすぐっている。晴れた空が牧歌的であるなら、この曇り空を、ルダはどう評するのだろう。
「あ、メルン姉!」
顔を戻すと、遠くで手を振る少年が見えた。
「クータ、こんにちは」
「こんにちはー!」
クータは遠慮なく私の隣に座ると、足をぶらぶらとさせ、頭をゆらゆら揺らした。
しかし、それだけで、いつものお喋りな口が閉じっぱなしだ。
「どうしたの、今日は大人しいじゃん」
「あー、いや、なんか――」
活発で、口の止め方を知らないはずのクータがいやに気を遣っている。
「おい、気になるじゃん。何か聞きたいことあるの?」
肘で小突くと、クータはむしろバツの悪そうな表情を浮かべた。しかし、黙って反応を待っていると、私の目を覗き込み、意を決したように話し始めた。
「いや、この前さ。メルンお姉ちゃん、庭に何か隠してたじゃん。あれ、何かなーって思ったんだけど、聞いたらちょっと駄目そうかなって――」
庭に――?
「それ、多分私じゃないよ。だって、そんな覚えないもん」
「いや――うん――」
軽く返したつもりだが、自分の言葉が失速して、地に落ちたのを感じる。クータの言葉はない。ただ、何か妙に、怯えて――いや、そうとまではいかないが、妙に慎重だ。
「――ねえ、クータ。それって、いつのことか覚えてる?」
嘘を吐いている様子はない。それなら詳しく聞く必要がある。
「えっ、うん。一週間くらい前だよ」
一週間前。私がぱたりと悪夢を見なくなった日だ。私は、頭を掻いてみせた。
「いやあ、ごめん。お姉ちゃん病気で覚えてないんだ。何やってたか教えてくれる?」
「そ、そうだったんだ! 僕、てっきりメルン姉の秘密見ちゃったのかと思った! あの時のメルン姉、呼びかけても返事してくれなかったんだもん!」
当然、私にはない記憶だ。悪夢を見なくなって、呪いの存在が少しぼやけていた。記憶とは存在を指し示すからだ。しかし、今、この少年から無邪気に示された事実は、全身を総毛立たせた。あの気味の悪い何かは、明らかに私の奥の奥まで入り込んでいる。
「何時だったか覚えてないけど、僕、夜中にトイレに行ったんだ。ちょっと外は明るかったかな? で、そこで――その、ゆっくり行ってたんだよ、トイレ。そしたらメルン姉が見えてさ。声かけたんだけど返事なくて。僕、なんかしちゃったかなと思って、窓からメルン姉のこと見てたんだ。そしたら――そこの植木の所になんか埋めてたんだ」
クータが指差した先、低木の隙間。私はクータの話を聞き終える前に、一目散に植木の土へ向かった。触れてみると、確かに土は布団のように簡単に沈む。
急いで手で掘り始めると、あとからやってきたクータも手伝い始めた。柔らかな腐葉土は思った以上に掘りやすく、爪の間に挟まる土も、手を離す度にポロポロと零れていく。すると、そう深くないあたりで、滑らかな感触に当たった。引っ張り出すと見覚えのある茶色の表紙が出てきた。エレに買ってきてもらった安いノートだ。
思い出した。悪夢の正体をどうやって暴いたか。どうやって記録したか。
私は、起きてからほんの数瞬は悪夢の記憶を保っていた。そこで私が考えた方法は、至ってシンプルだ。夢の中の出来事をノートに記す――それだけの簡単なことだ。だが、今の今まで、私はそんな簡単なことをやったことを、思いついたことを忘れていた。
ノートには、土の水分が少しだけ滲んでいるものの、内容には問題がなかった。私は文字を読むことは出来ても書くのはかなり難しい。だから、そこに書かれていたのは悪夢のシーン一つを切り出したものだった。
仮面の男だ。仮面は、目の辺りに窓があり、口の辺りに丘のような出っ張りを持っており、服は、ボロボロの黒い外套を纏っている。
「ありがとう――クータ。教えてくれて。もう、雨が降りそうだから、中に戻りな」
「へへ、うん!」
クータは自慢げに鼻を擦ると、髭のように土が跡を残した。彼が、事の重大さ、特に自分がしたことの大きさについては、いずれよく知らせて、お礼を改めてするべきだ。私は急いでローデスの研究室へと駆け上がり、扉を開けた。
「何か分かったか、メルン」
ローデスは予見していたかのようにこちらを見据えていた。というか、それはそうだ。こんなにどたばたとやってくる患者は私しかいないだろう。私は、扉を静かに閉じ、ローデスにノートを渡した。
「それが、私の悪夢に出てきた仮面の男だよ。その男が、私の胸を掘って、心臓を取り出そうとしているんだ。――私の身体、悪夢の中だと粘土みたいだって話はしたよね。それを掻き分けて、奴は私の心臓を狙ってる」
ローデスはノートを開き、しばらく目を細めて、絵を眺めていた。そして、ノートを閉じると、彼女はそれを机の上に置き、何度か頷いた。
「――そうか」
彼女の対応は思ってよりも冷静なものだった。
息を切らして知らせるような内容――のはずだったが。
「メルン、私は一つ思いついたことがある。君は十分に仕事をした。休んでいたまえ。ここからは私の仕事だ」
「え――でも――」
口元に人差し指を押し当てられる。そして、そのままパイプを咥えさせてきた。
「よく吸いたまえ。君は今興奮しきってる。リラックスが必要だ」
言われたまま吸い込むと、身体を震わせていた鼓動がゆっくりと落ち着き始める。
「これ以上は、君に調べられることはないし、私には見当がついたんだよ、メルン。最後のトリくらいは私達に任せてくれないか。君は患者で――今も本当はベッドで安静にしていてほしいんだ。実を言えば――この数日間、私は気が気でなかったのだから」
ローデスのたしなめるような声を、私は初めて聞いた。気づけば、素直に頷いていた。
「よし、いい子だ。――いい知らせを持ってくるよ、メルン」
その時、ここが家なんだと、改めて実感した。