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第十四話

 差し込む朝日に、安堵よりも熱意を感じたのはいつ以来だろうか。これを幸福と呼ぶのは、お門違いのように思うが、それでも今まで以上の張り合いがあることには間違いがなかった。私は、身体を起こし、滑るようにベッドから立ち上がる。

「珍しいな、君は今まで最低限に保障された生命を浪費するようだったが」

 突然投げられた言葉に、身体がびくりと震えた。

「びっくりした――声かけてよ、ローデス先生」

 ローデスは相変わらず、書類を見ながらベッド横の椅子に腰かけている。

 彼女はちらりと枕の方を見やり、呆れた顔をした。

「この距離で気づかない君も悪い。それに、寝てる君にどうやって声を掛けるんだ。まだ眠っていると思うが、起きる時は私がいるから十分に気をつけてくれ――とでも?」

 いつもは見せない身振り手振りを駆使するローデス。ひどく馬鹿にされている。

「私が悪うございました。で、どうしたの? かわいい患者のことが気になった?」

「ああ、気になったことがあった。だから調べた」

 ローデスは頬杖をつき、ねめるように私を見る。

「な、なに?」

「いや。君は昨晩こう言っていた。命を狙われる悪夢を見た、と。君は悪夢によって体力を削られたのだろう、すぐに眠ってしまって詳しい話を聞けなかった。だが、君の一言は君が詳細を明かさずとも、私たちの興味を強く惹くものであった」

 彼女は、書類をせわしなくめくると、その一枚を取り、ベッドの上へと投げた。

 見ると、天秤や亡者の図が書かれており、小難しい文章が並んでいる。

「そこに書かれているのは、私とルダの仮説だ。君に襲い掛かる亡者――これは君の身に降りかかる不幸を表している。君はそう述べていたね。しかし、正しくは、君の身体に蓄積した幸福を取り去っている――それの具体的な象徴であると考えている。まあ、君にとっては不幸そのもので間違いはないわけだがな。しかし、そう、あくまで象徴だ。亡者たちには意思はない。川が山から平地に流れるような、自然現象の一つだ。言ってしまえば病気などは須らくそうである。だが――どうだろう。君は、命を狙われたと言った。それは――病気ではない。それは、何者かの意思だ。だから、君が、何者かに狙われていないか、何者かの意思の介入がないか、監視していたのだ」

「――結果は?」

 ローデスは、だるそうに首を横に振った。

「なにも。それに、君――昨日は同じ悪夢を見たか?」

「いや、見てないよ。ただ、気色悪い空を眺めてるだけだった」

「そうか。じゃあ、昨日の夢についてだ。少し聞かせてくれたまえ」

「うん、あれは――」

 私は、言葉にしようとして、続く言葉が全くないことに気づいた。

「あれ――なんで――なんで覚えてないの――?」

 昨日は這い寄る恐怖に追われ、火を放つような激情に身を焦がした。なのに、昨日の夢の悪夢を記憶できていない。不自然なほどに抜け落ちてしまっている。足踏みをして、頭を強く掴んでみても、記憶の糸は微塵もその先を見せはしない。

「夢なら忘れることもある――と言いたいが、君の悪夢に限ってはあり得ないだろう」

 ローデスは絞られた喉から、苦し気なため息を吐いた。

「とにかく思い出すことがあれば、教えてくれ。私はルダと少し話してこよう」

 それだけ言い残すと、ローデスは病室を後にした。

 しばらく、頭を抱え、記憶を掘り起こそうと躍起になってみるが、ただ頭に力を入れているだけで、何も起こりはしない。頭が痛くなる。私は窓を開け放った。

 アレ――形容もできない存在が、私の悪夢の記憶を奪ったのだろうか。なんて臆病で身長な奴なのだろう。真っ向から来れば、真っ向から対峙してやるのに。私は、自分の腿を何度か力なく叩いた。私はしばらく、部屋の中を歩き回った。心が鎮まり始めた頃、ようやく冷静になろう、という考えが浮かび、私は再び窓の外を眺め、ハウゼの空気を吸う。

 逆に考えれば、存在を覚えられていることが不都合と言うならば、その姿を覚えることには価値が生じる。姿の記録を行えれば、糸口が見つかるはずだ。

 胸の辺りに、まだ何か気持ち悪さが残っている。その理由を明確に覚えていたはずなのに、覚えていたという記憶だけが残っている。それが、より不快感を増幅させた。何者かに明確に狙われる覚えはない。いや、もしかしたらレーチヤの人間の逆恨みかもしれないし、罪の暴露を恐れたゲブールの仕業かもしれない。

「思えば、心当たりがあり過ぎてわかんないな」

 だが、レーチヤの線は薄いだろう。ローデスから聞いた通り、レーチヤは今、悲惨な状況になっており、日々を生きるのに必死なはずだ。医師団から介抱を受けてなお、私を恨むような奴は――。

「いそう。やっぱレーチヤもあり得る」

 人間の悪意の強さはよく知っている。それも、責任転嫁の勢いと来たらとんでもない。

「でも、ゲブールの方があり得そう」

 これが呪いとすれば、レーチヤには一つ欠けている知識がある。汎的な神事や呪いについては全く詳しくないことだ。レーチヤは『清ら水』をただ守り続ける、派閥としては『掟』の街だ。汎的な神事には興味がなく、街に自然と根付いた思想が跋扈する。そうでなければ、レーチヤはゲブールによるシステムなど受け入れなかっただろう。

 だが、ゲブールは違う。ゲブールは、金庫の街から来たと言っていた。金庫の街はどういう理由か知らないが、『信仰』の派閥に身を置いている。であれば、呪いの知識には事欠かない。私の命を、呪いで狙うことも可能ということになる。

「いずれにせよ、呪いの正体を突き止めないと――」

 私は図書館で、神事に関する様々を調べ始めた。だが、見当のついていない調べ物というのはあてずっぽうとそう変わりはない。気づけば、人のざわめきを感じた図書館も、一日が終わりゆくにつれて、本当の静寂へと変わっていく。

 本棚の隙間で人とすれ違うこともなく、積まれていた本は気づけば消えており、存在を表す本の山は、私の席に残るだけだった。

 夕日が差す中、また適当な呪いに関する本を持ってくると、ルダが椅子に横たわりながら、本をぺらぺらとめくっていた。

「ルダ先生、なにしてるの?」

 今はルダと話せるような調子ではなかったが、無視できるわけではない。

 声をかけると、ルダは身体を起こし、狩人のように細まった目をこちらに向けた。

「行き詰まったからこうしてるんだ。ローデスから話は聞いている――残念だったね」

「ルダ先生にしては、冷淡な慰めじゃん」

 いつもの明るい先生と違う。私はルダを茶化しながら、不思議と安堵を覚えていた。ここで気を晴らそうと言葉を重ねるようだったら、私は逃げるようにここを去ろうとしていたことに気づいた。

「今の君にそれは必要ない。医者の目をしているよ、メルン」

 今、ルダは私ではなく、遠くを見つめながら、獲物の話をしている。

「医者かどうかは知らないけど、リースとラーネの願いだからね」

「ああ。絶対に治さないといけない。僕も、方法を考えている」

 私はルダの対面に座り、頬杖をついた。

「ねえ、これは病気だと思う?」

「君が経験した悪夢の一件は、なんらかの人為が関わっているだろう」

「そうだよね。私はゲブールが怪しいんじゃないかって思ってる」

「ローデスの報告を聞いた。レーチヤは今、壊滅状態だってね。そんな中で高度な呪いを扱える人物と言えば、妥当な線だろう」

「でしょ。そもそも私が出る時には、結構、ボロボロだったよ。膿垂症がないだけで、新月病が蔓延してたから。外に出てる人は少なくて――孤独な人は血を吐きながら、外でそ動かなくなっていった。あの頃はまだそれを片付ける人はいただろうけど、今やそんな人もいないんだろうね。ローデスはそこまで口には出さなかったけど、予想できるよ。死体の転がっているレーチヤ。私達は、三歩遅れたし、遅れなかったとしてもどうしようもなかった。ゲブールはハゲタカのような奴だったね」

「だね。レーチヤには、今も医師団が在駐している。ローデスはあの短期間で新月病の原因を突き止め、後の治療を医師団に任せて、君のもとに戻ってきたんだ」

「律儀だね、ローデスも。優先すべきは患者じゃない?」

「だとしたらローデスの判断は正しい。ローデスの担当患者は君だから。しかし、難儀なものだね、心臓を狙われるなんて。高度な呪術を使用されていると見た方がいい。ゲブールにそれが可能か、それも改めて考える必要がある」

 私は、胸の不快感が蘇ったような気がして、胸元を強く抑えた。腕や足に、気分の悪い感覚が這い回るのは慣れているが、身体の中枢、それも心臓の近くとなると話は別だ。指先の痛みは軽く思えても、胸元の痛みは深刻なものとしてしまう。

「そのために必要なのが、悪夢の詳細、なんだけど――」

「それが抜け落ちてしまう。術者は、どうしてもこの呪いを完遂させたいようだ」

 話しているうちに夕陽は、紫の帳に押し込まれていた。いずれ、空は黒より暗い藍色に塗りたくられるのだろう。ルダの顔は、暗闇の中、ぼんやりとしか見えず、私は図書館の閉館時間が来たことを悟った。

 私が立ち上がると、ルダも同様のことを考えていたのだろう、席を立ち、本を抱えた。

「今日はこの辺りにしておこう。本は僕が片付けておくよ」

「ありがと。――私はもう寝るよ。悪夢の中のアレに出会えるかもしれない」

 ルダは頷いたが、いつもの口調でこう伝えてきた。

「無茶はしないでくれ、メルン。その仕事は、本来僕たちのものだ」

 私も頷いたが、すぐに首を横に振った。

「ありがと。でも、この命は私のものだよ、先生」

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