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第十二話

 この頃には、バルデル医院に来てから、すでに一ヶ月が経とうとしていた。

「あ、メルン姉! また笛吹くの?」

 気分転換に庭に出てみると、子供の一人、クータに捕まった。私は彼の小さな手に引かれ、ベンチに腰を下ろした。その隣に、クータは跳ねるように座ってきた。キラキラとした目で見つめてくる彼に、私は抱えていた本を見せた。

「今日は吹かないよ。本を読みに来たからね」

「えー、残念。ていうか本読めるんだ! メルン姉って頭よさそうだもんね!」

 まくしたてる喋りを落ち着かせるように、私はゆっくり喋る。

「みんなよりちょっと大人なだけだよ。――今日は調子いいの?」

 実際、文字の読みは出来ても、書きは苦手なのだ。すぐにクータに追い越される。

 クータは元気に頷き、華やかな笑顔を見せた。

「うん! 看護師のお姉ちゃんに外出ていいよーって言われた! ほら、あそこ!」

 クータの指した方向には、顔見知りになった看護師のエレがいた。かけっこにでも付き合わされていたのだろう、肩で息をしながら、手を振っている。

「ねえ、メルン姉も鬼ごっこやる?」

「ごめんね、私は思いっきり病気だから」

 身体から大体の病気は消え去ったけれども、不幸はまだどこかで渦を巻いているかもしれなかった。ルダはそれを警戒し、私に激しい運動を禁止している。怪我をする確率があることはするなということだ。

「あ、そっか――つらくない?」

 クータの声色が落ちたのを聞いて、私は彼の頭を撫でた。

「心配させちゃった? でも大丈夫。身体に直接来るようなものではないから」

 せいぜいが、日々の小さな不幸ぐらい。ルダ先生の処置もあって、ここ最近は、悪夢の程度もひどくない。相変わらず吐き気のする空を眺めてなきゃいけないのは苦痛だが、それでも亡者はめっきり減り、ただ天秤の皿の上に横たわっているだけのときもあった。少しだが、首も動かせるようになってきたので、周りを観察したりもしている。

「辛くないよ、平気。最近は幸せなくらい。このまま病気が治んなくったっていいよ」

 いつか、この街が不幸に包まれたら、私の身体はまたボロボロになるのだろうか。そうだとしても、このままで良い気がした。ハウゼの街が、病に沈む日など来ない確信があった。ルダもローデスも、立ちどころに病を沈めてしまうのだから。

 だが、クータは駄々をこねるように大きな声を出した。

「えー! それじゃ病院から出られないじゃん!」

「確かに、お外で遊べないのは辛いかもね。でも、私は前の街でも引きこもってたの。それもすごい贅沢な暮らしをしててね」

「ぜいたく? どんな?」

 首をこてんと傾げたクータに、私は顔をずいと近づけて真剣な顔で答えた。

「白いパン食べ放題」

「いいなー!」

 クータは腰からのけぞり、足をばたつかせながら叫んだ。子供の夢、どころか多くの大人達の夢でもあるだろう。その純粋さの程度は違うが、あの膿垂症を除けば、誰もが羨むような生活であったに違いない。それに、あそこにはリースもラーネもいた。

 本当に不便なんて、不幸なんて些細なものだった。

「でもね、今の生活もだいぶ気に入ってる」

 だけど、これも本心だ。今、私はあの二人がくれた幸福を享受しているのだから。

「あ、ローデス先生は知ってる?」

「うん、変な喋り方する先生だよね?」

 子供の感性ではそうなるらしい。彼女は変というより偏屈なのだが。

「そう。今はお出かけしてるけど、結構仲いいんだ。ルダ先生もよく喋ったり、あちこちに連れ出してくれる。たまーに、私にお父さんとお母さんがいたならこんな感じだったのかなって――ちょっと思う」

 すると、彼は急に納得したらしく、声のトーンが落ち着いた。

「そっか――僕は、早く帰りたいおうちがあるけど、メルン姉はここがおうちなんだ」

 そう、か。

「――そう、かもね。今は、そうかも」

 孤児院に居た頃のような、安心感――。あれは幼さ故の無知から発せられていると思い込んでいた。知らないから安心できる。知ったから安心できなくなった。そんな物事はたくさんあったから。だけれど、様々を知った今でも、力を抜いていられる。

「あ、そろそろ戻る時間みたい。メルン姉、またね!」

「うん、またね」

 クータがばたばたとエレに駆け寄り、たしなめられながら医院に帰っていく。

 私は空を見上げた。ハウゼの気候は穏やかで、いつだって青空に、白い雲が羊のように漂っている。ルダは、青空を描くのが好きだと言っていた。

「平和な青空は、牧歌的なんだ」

 田舎者の私からしたら、その言葉は皮肉臭いものだったが、私も大方、同意していたんだろう。じゃないと、雲は雲でしかないし、羊のようとはならない。浮かんでいる雲を数えてみる。一つ、二つ――。雲に思いを馳せてみる。どうやって浮かんでいるのか、何でできているのか。当たり前の存在。身近にあり続けた存在。それがどうしてあるのか、それがどうやってあるのか。そんなことを考える余裕が今の私にはある。

 ハウゼの爽涼な風が、肺の中の傷みを洗い流す。この薬草の香りにも慣れてしまったものだ。新月病だの膿垂症だの、病気が多かったレーチヤでは、こんな晴れ晴れとした気分で息を吸えることもなかった。私は目を閉じて、深呼吸をした。吸って、吐いて――清潔というのは、安心感の担保となるのかもしれない。

 だから、その爽やかな風が失われた瞬間、私は驚いて目を開いた。

「――最悪、何も今来なくたっていいじゃん」

 どうも最近は油断しきっている。この悪夢に入る度にそう思う。

 今までは気絶するまで、勝手に引き込まれるまでは、眠ることなどなかった。だが、普段の生活も、悪夢の中でさえ、あまりに安全で気が抜けているのだ。幸い、周りに亡者はいないようで、気色の悪い感覚もない。私は、牧歌的とはかけ離れた空を見上げた。押し上げられるのが、あの青い空だったら、こんなに生き延びようとはしなかっただろう。

 天秤が、急に傾いた。きぃ、と耳障りな音を立て、最悪の空が離れていく。私は急いで辺りを見渡そうとして、自分の身体が動かないことを思い出した。

 辛うじて首は横に動き、下からきぃ、きぃ――と上がってくる皿が見えた。

 ずっと近づいてくる空だけを見ていた。だが、今日、生まれて初めて離れたのだ。

 私の胸の辺りで、あの不快な感覚がする。身体の中をぞわぞわと這い回る感覚。露出すべきでない内臓が、淀んだ空気に冒される感覚。今なら目も首も動く。だが、私はそこにいる者を確認したくなかった。叶うならこのまま、何事もなく過ぎ去ってほしかった。

 だが、恐怖から来る好奇心は、安心感の担保だ。

 ――そこには、目の辺りに、丸い窓のあるマスクをつけた、黒い男がそこにいた。本来であれば、闇夜に溶けて姿を隠してしまうだろう黒い外套は、この極彩色の空の下で、何よりも強い存在感を放っている。影は左右に微かに揺れながら、私の顔を一切見ない。見据えているのは私の胸の方だ。ああ、感覚と、その手の動きで、分かる。

 胸の辺りが、削られている。勢いは衰えない。これは――これは――。

 私の心臓が、目的なのか。

「はっ――はあ――はあ――」

 私はベンチから飛び起きた。今までの何よりもひどい、悪夢からの啓示。いつだって私の肉体が強く削られるときは、不幸の警鐘が鳴り響いていた。そして、これは、恐らく最悪の暗示である。どうしてだ、ルダ先生の治療は上手くいっていたはず――。

「メルン、か?」

 低い、女性の声が聞こえた。気づけば庭は暗闇に覆われており、微かな月明かりが照らすばかりで、声の主の姿はよく見えなかった。しかし、その声はよく聞き覚えた声である。

「ローデス?」

 人影が近づくにつれ、その姿が露わになる。その姿は黒い外套を纏ったローデスだ。その表情は暗く、今にもこの闇夜に溶けて消えてしまいそうであった。

「どう、したの――」

 疑問の言葉に、声が詰まる。私には、すでに確信があった。いつだって、悪夢は不幸の暗示であった。悪夢は起きたら終わる。私は、その常識に馴染んでいたはずだった。

 でも、思い出したんだ。悪夢は、予兆を示し――

「リースとラーネは――すでに亡くなっていた」

 私の悪夢は、現実でこそ続くのだと。

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