「言ったでしょ、新月病なんかじゃないって」
彼は、その言葉を意に介さず身を屈めた。そして、ローデスのように瞳を覗き込んでくる。だけれど、私は緊張した。ローデスの時は、自分の中身を覗き込まれるような心地だったが、ルダは――違う。私を少しも見ていない。私を通して、他の何かを――。
「うん、でも安心してほしい。必ず治すから」
彼は、身体を起こすと、拍子抜けするほど、軽く、朗らかに笑いかけてきた。
私は、あまりの印象の落差に、呆然と返事を忘れた。
「少し、仮説を立ててみたんだけれど、君の孤児院時代は、それほど大きな病には罹らなかったんだよね?」
「う、うん――膿垂症以外は」
「膿垂症は流行病だし、確率が高すぎるからね。君が肩代わりする確率が上がっただけと考えられるな。それに、罹る可能性がゼロであれば、そもそも罹らないのだろうね」
「そうだね。私は、膿垂症を肩代わりするために『清ら水』を飲むことを義務付けられていた。それもほんの少量だけ。これはゲブールも実験して証明してるよ」
すると、ルダはぶつぶつと何かを考えながら、部屋の中を歩き回り始めた。ローデスは話を聞いて物事を整理するとき、なんでもかんでも書類に書き込む静かなタイプだが、ルダは動的なタイプらしい。彼の活発さはここに吸い取られていそうだ。
ベッドから部屋の角、部屋の角からテーブル、テーブルから窓――しばらく眺めていると彼はふらふらとそのままドアに向かって、部屋を出て行ってしまった。
「ちょ――」
慌てて引き留めようとしたが、あまりに自然な流れだったもので、私はタイミングを逃した。せっかく命を賭けるような覚悟をして話したというのに、それが簡単にバルデル医院の日常に溶け込んでしまったように思える。複雑な気分だ。
私は、仕方なしに枕に頭を預け、読みかけの本を開いた――が、当然、内容が頭をすり抜けていく。目は文字を追っているのに、別のことを考えている。こういうときに、読書ができる人間は、きっと瞑想の専門家なのだろう。
そうして、すっきりとしない心持で、あてどなく本のページをめくっていると、ルダがぶつぶつ言いながら、部屋に戻ってきて、またぐるぐると回り始めた。何か言ってやろうとも思ったが、あまりに真剣な表情だったので、邪魔立てするのは止そうと思った。
ルダは何回回ったか分からないが、ふと、私の目の前で止まると、
「君の特性を抑えることは可能だね」
と、唐突に言った。
「え?」
目の前の医者があっけらかんとそんなことを言うから、思わず声を上げてしまった。
「ま、待って――そんな簡単に片付く話じゃないでしょ」
彼は部屋をぐるぐる回ってただけだ。何かの研究をしてたわけじゃない。だが、彼はいつもの調子で――太陽はいつでも昇ってくる、なんて当たり前のことを説くように、こう話した。
「もちろん。君の体重減少の件が残ってるし、悪夢は取り払われるべきだ。だけれど、この方法は時間稼ぎには最適だと思うよ。君が関係ない疾患に罹るリスクも防げるし、加えて一つ実験ができる」
「――実験? 何の話?」
巫女と忌子以外に二つ名が増えるのか、と警戒すると、ルダは慌てて説明を加えた。
「ああ、すまない、身構えないでくれ。そうだね、言葉が足りなかったよ、すまない。安心してほしいんだけれど、これは君を救うための実験だよ。上手くいけば、治療とまではいかなくても他の人間と変わらない生活を送れるはずだ」
ルダの声のトーンは、話が進むにつれてどんどん上がっていく。なんで、ハウゼで最も優秀なこの医者たちは、嬉しそうに症状を解析するんだろう。これを変に疑ってた私が馬鹿らしい。この男から全力で逃げたのも、一つ周って、イライラしてきた。
私が返事をせず黙っていると、ルダがまた瞳を覗き込み、困った表情を浮かべた。
「どうか気を悪くしないでほしいな、これが医者というものだからさ」
私は、いよいよむかついてルダの顔を押し退けた。
「だから、まだ何も言ってない――勝手に察するのやめて」
瞳を覗かれないような方法を、早急に考えないと。
ルダは、私に様々な処置をした。見慣れた医術もあれば、怪しい儀式のようなものも施された。まだ服に、妙な香の臭いが残っており、嗅ぐ度に、微妙に気分が下がる。衣服の袖をしきりに確認する私に、ルダが見かねて声をかけた。
「そんなに嫌そうな顔をしないでくれ。これから毎日嗅ぐ匂いなんだから」
「まあ――うん――」
その慰めは、どちらかと言うと、より気分の沈む話だ。
私は、改めて街の空気を吸い込んだ。病室からでもかなり爽やかな空気だということは分かっていたけれども、直接吸うと、なお心地よかった。白の街、だと来た当時は思っていたが、今となっては白一色ではなかったことが分かる。店の看板、軒先に干された洗濯物、たまにだが、見慣れたタイプの木の家屋もある。それに、ゴミだって落ちている。
ふと、ルダが微笑みながらこちらを見ているのに気づき、私は咳払いをした。
「それで? なんで私は外に連れ出されてるの? 私みたいな不幸吸着女が外出たら危ないでしょ」
その言葉にルダは軽く吹き出した。
「君はそういう冗談も言えるタイプだったんだね」
「うるさい。――で、どうなの?」
「ああ。その点は安心して。君は今ほんのちょっとだけ不幸な人、ってくらいなんだ」
「不幸ではあるんだね」
「でも、命に危険があるレベルにはならないから、普通の不幸を楽しんでほしいな」
普通の不幸――私は心底、嫌そうな顔を作って見せた。
「不幸なんてないほうがいいでしょ」
「ああ、まあ――」
ルダは、そうだな、と呟いて、口元に手を置いて、しばらく考える。
「うーん、そりゃそうだけど、そうじゃないっていうか――ああ、でも、特に君が憧れた青春とか恋愛には欠かせない要素だよ」
ルダの言葉に、頬から耳まで熱くなるのを感じた。こんな感覚は久しぶりだ、なんて穏やかな感想は、そのすぐ後にやってきた恥じらいで全部押し流された。
「待って、何言ってんの――」
ルダはそんなことまで把握してたのか。いや、これは――。
「ローデス、そんなことまで話したの?」
私がルダに詰め寄ると、彼は困ったように笑った。
「彼女、結構おしゃべりだからね。僕が君を持つことは前から決まっていたし、それもあって君から聞いたことはほとんど話してると思った方がいい」
私は一等、大きなため息を吐くと、やるせなくて、石畳の隙間を目でなぞった。
「ちょっとでも思いやりがあると思った私が馬鹿だったよ――」
「ま、まあまあ。そのローデスのおかげで、君はここまで生きて来られたんだから」
反射的に、噛みつくように、私は応えた。
「それは別問題でしょ。ルダ先生って、なんかズレてるよね」
「こりゃ手厳しいねえ」
ルダは頭を掻きながら、歩みを進める。その後ろをついていきながら、街の様子を改めて見回した。ハウゼの街は相当に広いらしく、今、見渡しているこの地区だけでも、レーチヤの総人口を軽く超えてしまうだろうと予測できた。
人通りは、結構多い。普通に歩いているだけでも、一人、二人とすれ違う。私が昼間にこの街に入っていたら、もっとここは大騒ぎになっていたに違いない。このすれ違う人が皆追いかけてくるシーンを想像すると、恐ろしい話だが、ちょっと滑稽でもある。
店はぽつぽつとあるイメージだ。家屋として住んでいた場所が、そのまま商店として改築されたパターンが多いのだろうか。どれもこぢんまりとしている。やはり大きな建造物は医療関係のものに集中しているようだった。