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第六話

 久しぶりだった。身体に巻かれていた包帯は段々と解かれていき、その下にあった肌の傷跡や赤みが消え、健常な肌が覗いた。特に胸から腹にかけての胴体部分。こんなにも滑らかで、陶磁器のようであったことを知らなかった。これは、私が巫女になる前にも得られなかったものだ。私は巫女になってからも、膿垂症の影響で常に痩せこけていた。孤児院の頃は言うまでもない。あそこの食事は、粗悪だったのだから。

「あの頃は――」

 私はベッドの上、零しそうになった言葉に驚いた。幸福だった、と。

 確かに、不幸を吸い上げる性質は昔から変わっていない。だけれど、それでも幸せだった。きっとセオ院長とリースとラーネ、あの三人がいたからだ。

「メルン――あなたの名前は今日からメルンです」

「いいけど、その名前、どういう意味?」

「あなたが、たくさんの縁に恵まれますように――そう願った名前です。その昔、神の一部であるメルネポーザは心を強く持ち、人々の中で過ごし、そしてたくさんの交流を重ねてきたとの話があります。メルネポーザは多くの人と絆を結び、人々に愛された――」

「よくわからないけど、いろんな人と過ごせってこと?」

「――ふふ、そうですね。その理解で構いません」

 私はセオ院長が願いを込めた名前を好いている。でも、セオ院長の願いは、この呪わしい体質によって、容易く叶えることができないものだと知った。

「メルン! お花摘みしよ!」

「ラーネ、ちゃんと気をつけなよ。花の中には棘を持つ種類もあるって聞いた。私が傍に居るときだったら、別にいいけど――っ――」

「ほら、メルンお花――あっ! メルン、ケガしてる! 早くお薬もらってこよう! もう、メルンって人に注意するのにいつも自分がケガするんだから!」

「ラーネ、君も気をつけるんだ。メルンも傷を見せてみろ。――ふむ、大丈夫だ。植物の方も毒性のあるものではない。軽く消毒だけしよう」

「すまないね、リース――」

 でも、それは遠い未来の話だった。孤児院の頃は、縁を結べていたのだから。

「メルンもペンダントあれば、お揃いなのにね」

「ラーネ、これは両親の形見だ。それをお揃いにするというのは難しい。これを購入したのはずっと昔の行商人から。また買い付けるというわけにもいかないだろう」

「わかってるってば。ただ、そうだったらいいなって。メルンはもう家族じゃん」

「それを言うなら、セオ院長の遺したこの孤児院の者全て、だ」

「相変わらず、真面目なんだから。どう思う? メルン」

「いや、どうもこうも――リースらしい」

「とのことだが」

「もー、もう少し気にすることあるでしょ!」

 だが、段々と縁は失われた。消えていった。

「ラーネ、調子はどうだい?」

「メルン――うん、だいぶいいかも」

「ラーネの吐血は、今日は見られていない。食欲もある。いいことだ。身体を作るのは日々の食事だ。――君のおかげでもある、感謝しているよ」

「ごめん、メルン――私――」

「気にしないで、ラーネ。これは私が望んでやってることだから」

 巫女となった後から、ほとんどの縁は失われ、彼らとの絆だけ残った。

「――エラーデはどうだった?」

「ダメだった、らしい。新月病は抑えきれなかったみたい」

「セオ院長の子供はもう――私達だけ、だね」

「ああ、だからこそ、俺たちは生きなくちゃいけない。ラーネ、気を確かに持てよ」

「わかってる――メルン、この病気を治したら、またお花摘みをしようね」

「うん、もちろん」

 私はあの時、上手く笑えていただろうか――。

「おや、ぼんやりとしているな。本の中で気に入るものはあったか?」

 身体がびくりと震えた。慌てて横を見ると、気づけばローデスがいつもの椅子に座っていた。パイプの中に火を落とし、また爽やかな薬草の香りを漂わせている。人がその存在に気を揉んでいるというのに、この女医は落ち着き払い、悪びれもしない。

 だが、その自由さを除けば、彼女は医者としてかなりの気遣いを見せてくれていた。例えば、ベッド横のテーブルに積み上がっている本は、入院生活は退屈だろうということでローデスが持ってきたものだ。もっとも――。

「本、多すぎない? この中に読みたい本がなかったら、多分どこ探したって見つけられないでしょ」

 疑問を受けると、ローデスは書類に視線を向けたまま答えた。

「いや、人格というのは我儘でね。これだけ網羅したって、実は全ての人間の趣味嗜好の一割にも満たなかったりする。例えを出すとすれば、友人などどうだろう。何も嫌いなところがなくても、人格は満足してくれない。そう考えると、本と人は似ているな。本は作者の人格が色濃く出る」

「そんな難しいこと、あまり考えたことないけどね」

 私の軽い言葉に、ローデスはわざわざ視線を上げた。

「そうか。君は考えるべきだ。医者を志す羽目になるだろうから」

 それだけ言って、また書類に目を落とす。私は呆れ返った。

「聞き飽きたよ、何回言うのさ。私、まだ患者の立場だよ」

「珍しいものだからね、許してくれたまえ」

 その未来もないのに散々聞かされる身にもなってほしい。だが、今日のローデスは他のことに気が向いたらしく、医者への言及はやめて、珍しく世間話を始めた。

「ところで君は、どんな本を選んだ?」

 私は思わず、枕元に置いていた本を隠した。ちょっとまともになったと思ったらすぐこれだ。この具合の悪い会話ばかりの医者をどうにかしてくれ、と心の中で毒づき、枕を押し込んで、表紙が見えないように掛布団の中に沈めた。

「隠さなくてもいいだろう」

 意味が分からない、と言った様子で肩を竦めた彼女は、また書類に目を落としたが、次にぶつくさと心穏やかならないことを言い始めた。

「だが、推測するなら――ふむ、学術系は思った通りの不人気だな。物語系、それも冒険譚のような激しいものではないな。ロマンス系統の本が崩れている――つまり、恋愛に傾倒した――」

「い、いいから!」

 本を持ってきたのはローデスだが、私の本の趣味を知っていいというわけではない。

 私の様子に、ローデスは満足気な表情を浮かべたが、またすぐに興味を失ったのか、書類とにらめっこを始める。落ち着きのない医者だ。

「全部言う必要ないでしょ。すぐ腹の中まで探るんだから」

 私が嫌味を言うと、ローデスは薄く笑って、また話を続けた。

「物珍しかったと見える。君の居た街にはこういったものはなかったか」

「まあ――田舎の方だからね」

 私が言葉を選んで答えている様子に、ローデスはパイプを揺らした。

「すまない。決して君のことを尋問したいわけじゃないよ。ただ、君のことを知りたかっただけだ。例えば、様々な物の好みとか――ああ、本の好みは分かったが」

「もういいってば」

 私のことを暴いて、悪趣味に楽しんでる奴にそんな言葉をかけられても響かない。

「それに、別に好きってわけじゃない。言う通り、珍しかっただけ」

「そうかい。じゃあ――その珍しいものを後で追加しておこう。この辺りは片付ける」

 珍しい、をわざわざ強調して言う辺り、私の弁明は通用していないようだ。

 彼女は立ち上がると、崩されていない方の本たちを回収し始めた。

「さすがに全部持っていきっぱなしだと、バルデル医院の司書に怒られるからな」

「ここって、図書館もあるの?」

 医院に完備されている図書館――。その響きに、少しワクワクした。医院という施設自体すら珍しいのに、発展している街は施設の充実度が違うのだろうか。

「ああ、もちろん。君に渡したように、娯楽本もある。なにせ、入院生活というのは退屈極まりない。患者の心も、満たせなければ医院としては二流だ――などとバルデル院長は宣うのだよ」

「その先生とは気が合いそう。おかげさまで助かってるし」

「それは結構。この医院に入れたのも幸運だ。しかし、当然、図書館の役割はそれだけではない。症例の報告や、様々な街の記録が残されているんだ。街の記録の方は――ほとんど被害報告にも近しい。どういう風土、どういう環境、どういう街民性――そして死傷病者の内訳だ。新月病の症状は地域によって変わりゆく。研究施設の側面も、あの図書館にはあるのだよ」

「新月病は研究して治るの? あれは超自然的って――」

「本当によく物を知っている。だが、不十分な知識だ」

 褒められたと思ったら、腹の立つ返しだ。

「悪かったね――」

 私はむくれたが、ローデスは誤りもせず、じっと私の瞳を見つめた。その時間があまりに長く、私は目を逸らしそうになったが、なんだか負けてしまうような気がして、出来るだけ無表情を装って、ローデスの瞳を見つめ返した。

 彼女の茶色の瞳には、ただ私が写ってるだけだ。

「――いい友人に恵まれたのだろうな。物知りで、博識な友人と」

 どこからそれを推測したのだろう。もしリースのことを言っているのであれば、図星ではあるもだが、私は黙秘することしかできない。

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