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第四話

 悪夢は起きたら終わる。でも、私の悪夢は続く。途切れるはずの恐ろしい幻覚は、現実での最悪を示す。夢占いじゃあるまいし――と、大人たちは言ったが、それは正確な例えではない。起こりうる不幸を予言されたのではなく、不幸を起こしうる呪いをかけられているのだ。私は、悪夢で見た暗示を確認するのが怖くて、ここしばらくは胴体の包帯を確認したりはしていないが、傷が日々悪化しているのは確かだった。

「はあ――はあ――」

 暗い、暗い山道だった。月は夜の帳の内へと姿を隠し、星々が微かに光るばかり。足から伝わる粘土質の土の冷たさで、身体が震えた。その後で、身に纏う服がぼろ切れのようなもので冷えているのは足だけでないことに気づいた。麻痺した足裏では、きっと小石を踏んだことにも気づけていないだろう。

 あの日から何度日が昇ったかは数えていないが、私は懸命に山を登った。私はろくな学を修めていないが、それでもこの山の向こうに街があることを知っている。リースが教えてくれたことだ。もしもの際は、この山の向こうの街へ逃げろと。

 リースと別れたあの日の興奮の炎は燃え尽き、今の私はただ生きるのに必死であった。

 幸福と快適さを求めて山を抜けることばかり考えていた。神から遣われし贄巫女。棄却されるべき胎児。それらの忌み名、私の呪わしい二つ名を知らず、普通を過ごせる街へ。

 足の動きは、この逃避行の内、どんどんと鈍くなっている。膝が軋んでいる。膝の中の曲がる部分が固まってしまったと錯覚するほどだ。いや、実際、早朝の土がそうであるように、膝の中に霜が下りたのかもしれない。パキッ、パキッという膝鳴りは、まさに浮浪者の足音であり、死の臭いを仄かに燻らしている。

 整備などされていない坂道を上がっていくと、やがて遠くに、集合した家屋を認めることができた。左から右、軽く目を滑らしただけでは収まりきらない規模。闇夜に紛れているせいで、どんな街かは想像できないが、周りをなだらかな盆地で囲まれた土地だということだけは辛うじて分かった。

「あまり、綺麗な街でないことを祈ろう」

 祈る、と口から零れたことに私は苦笑し、唾を吐き捨てた。


 山を下り、街に着いたときには、東の空が白み始めていた。少しずつ照らされ始めた町の全貌に、私は驚きを隠せなかった。白く四角い石を高く積み上げた家屋に、美しく均され、白く舗装された道。何よりも絶望したことは、この街が異常な清潔さを誇っていることだった。道にはゴミどころか埃一つ舞っていない。私は思わず呟いていた。

「白の街だ――」

 私の言葉は、家の壁に反射せず、吸われて消えてしまった。いくら早朝であったとしても、異様なほど静かだった。

 泥に塗れた自分の足跡が、白い道に、鮮明に残されていく。こんなにも汚れた私は、白の街にとって、確実に異物であるというのに、拒否の反応もない。それが、異様に恐ろしかった。街は、それぞれ大きな信念を抱えていることを知っている。

 私が生きてきたレーチヤでは死してなお『清ら水』に縋る大人達を見てきた。故に、清水の街レーチヤ。清水を汚した者は、誰であろうと死罪が待っていることは有名な話だ。

「おい、ローデス。来てくれ――」

 私が逃げるかどうかの選択肢を決める前に、男の呼び声がした。振り向くと、白衣を着た細身の男が目に入った。

「しまった――」

 まだ距離は離れているものの、彼はこちらへと駆け寄ってきており、その顔は切迫したものを感じさせる。あまりに必死な形相に、私は急いで身を翻して逃げ出した。私がこの街における罪人であるかは置いておくとしても、怪しい人間であることには違いない。

 人に性質を知られれば、私は迫害される身だ。誰であろうと、逃げる他ない。

「今回も――ひどい」

 こんな夜明けに、街を歩く人間がいるなんて、と私は自らの不幸を呪った。しかし、急いでいたとはいえ、確認を怠ったのは私の落ち度である。私は裏路地に潜り込むと、やたらめったらに建物の間を進んだ。こんな悪路にも関わらず、裸足で走っても怪我をすることはない。どこを探せば、物を漁って生きていけるのか。ふと考えて、すぐに止めた。

 五つほどのブロックを曲がったと思う。今の身体の状態でここまで来れたのは、ちょっとした奇跡ではあったが、本当の奇跡を起こせるほどではない。走る体力が尽きた私は壁を背に座り込んだ。冬の寒気が肺を刺し、口の中を伝って、全ての臓物を腫れさせたように感じた。日に照らされていくに連れ、両腕の発疹は痒みと共に熱を持ち、やがてそれは肩から首を伝って、顔面にまで至った。赤く爛れた内腿からはとうとう赤か黒かも判別の付かない液体が漏れ出し、頭をノミで打ちつけられるような痛みが襲い始めた。

「ああ、なんだこれ――今までで一番ひどい――」

 目から涙が止まらなくなる。泣いているわけではなく、勝手に涙が溢れてくるのだ。感情など全て無視して、ぼろぼろと。次の瞬間、目が刺されたように痛み、私はとっさに目を閉じた。痛みは、目を閉じることで緩和されたが、気休めでしかない。

「もう、駄目か――」

 口にした途端、私は身体中に重さを感じた。この身体は、希望的観測の糸を以てして動かされていたのだ。それが切れた今、全てが鉛のように重く、緩慢で。血液が固まっているのではないか、そう思えるほど、身体は言うことを聞かなくなり、やがて、頭が回らなくなった私は、意識が悪夢へと引きずり込まれた。


 身体は動かない。いつもの気色悪い空だ。

 絵具を全て掌で混ぜたら、こんな醜悪な色になるのだろう。目を刺す鮮やかさがある癖に暗い空。それが、私が見る悪夢の常だった。身体は動かない。これもいつも通り。私はきっと泥から生まれたのだと思う。意識という糸を通し、どうにか動ける滑稽な人形。それが恐らく私の正体だ。意識を失っている夢の中では、私は無力なのである。

 空に目を凝らすと、鎖の輪郭が浮かび上がってきた。昔はここに、大きな丸い皿が見えたものだ。皿、といっても、人が暮らす部屋の広さぐらいはありそうな皿。私がこうして四肢を投げ出して寝転がっていても収まりきる皿。天秤で重さを測るための、皿。

 私を載せた皿は、段々と軽くなっているようだった。見えていたもう片方は今や遥か下にあるはずだが、それを確認する術はない。だけれど、あの空はどんどんと近づいてくるから、私の身体は空へ押し上げられているのだろうと予想できた。

 臭いがするわけじゃない。音がするわけじゃない。その中に何か見えるわけじゃない。

 ただ、得体の知れない空は、日毎に、私へと落ちてくるのだ。

 口だけの枯れ土のような顔がこちらを覗き込んだ。一つ覗き込んだかと思えば二つ。気づけば三つ。飛んで五つ。見慣れた顔ではあるが、私は未だに怖気づいた。彼らは、凝り固まった身体をくねらせながら、私の肉体に触れる。次の瞬間には、私の腕の肉が、泥遊びをするように削られた。痛みはない。ただ、自分の身体が掬われていく感覚はある。体内に蛆虫を流し込まれたような不快感が、そこにある。きいっ、と耳障りな音を立てながら、また天秤が揺れた。

 空が、再び落ちてくる。亡者どもが一掬いをする度に、私の身体は空へと押し上げられていく。恭しく差し出される生贄のように、ゆっくりと、一工程ずつを踏んで。

 きぃっ、と。また音がして、空が落ちてくる。

 多くの人間にとって、死は、悪夢からの解放となりうる。死ねば、人はもう夢を見ないだろう。そして、それは間違っていないと思う。死ぬことは、この世界では希望である。

 きぃっ――。

 だけれど、私が死ぬというのは、あの空に飲み込まれることだ。

 きぃっ――。きぃっ――。

 あの空には、飲まれたくない。

 きぃっ――。きぃっ――。きぃっ――。


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