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第三話

 ゲブールが失踪して一週間。私の居住地は、あの豪邸の形をした牢獄から、離れの馬小屋へと移された。給仕係は監視役へと姿を変え、私は柱に縛り付けられた。

 監視役は私の視線を感じると、眉根を顰め、睨みつけてきた。

「棄却されるべき胎児が。楽に死のうなどと思うなよ」

 だが、私がじっとその目を見つめると、彼はそそくさと目を逸らした。

 ゲブールが消えた後、民衆は暴れ馬のようにパニックを起こした。唯一の希望の綱が断たれ、私ごと狂奔の道へ突き落とす勢いだ。その結果、私のことを「民衆を騙し続けていた棄却されるべき胎児」とみなした。彼の態度も、それに沿えば妥当なものであろう。

 彼らは私を使い、今から儀式を行う予定だ。内容は詳しくは知らないが、私の身体を傷つけて、与えてきた幸運を取り返す――といった論理であることは聞いた。もしかしたら、そんな可能性もこの身にはあるかもしれない、そんなことをぼんやりと思った。

 この身は、数日経った今、膿垂症の傷から、他にも別の病気を抱えていた。当然だ、この身体は全ての不幸を吸い取る。何の見境もなく、無差別に。だからこその丁重なもてなしだったのだ。衛生管理を怠れば、すぐにこの身は病床に伏し、安全管理を怠れば、すぐにこの身は傷だらけとなる。私の身体はすでに常に痛みと痒み、熱を伴っていた。

 外はすっかり暗くなっていた。馬小屋の隙間から通る風は、最初は心地良かったが、ぼろ切れ一枚のみの身体には堪え、すぐに身体が意思に反して震えるようになった。拾われた日の布の方が暖かった、などと耽った。

 木々の影が揺れる先から、一つ炎が浮かび上がり、松明を持ったフードの男が現れた。

「そろそろ儀式の時間だ。戻って準備をしてくれ」

「わかった。あんたは?」

「俺はこいつに恨み言がいくつかある」

「あまり楽しみすぎるなよ」

 監視役は下卑た笑みを浮かべながら、その場を立ち去った。

 男はそれを見送ると、フードを取り、ため息を吐いた。

「許せ、メルン。彼も悪気があるわけじゃない。ああでもしなければ心が持たないんだ」

「知ってる。リースは相変わらずお人よしだね」

 リースは苦笑して、私に巻き付いている縄をナイフで切り始めた。

「俺が拾うと言ったようなものだ。責任は果たさないといけない」

 私は柱に頭を預けて、ぼやくように言った。

「でもさ、リース。儀式はもう始まるんでしょ? 私の逃げ場なんてないよ」

「ある。俺は昔から頭がいい。君にそう言われて育った。今回もそれを使わせてもらう」

「じゃあできるんだろうね。あんたのことだから」

「もちろん」

 ふと、身体に触れている縄が、細かく震えていることに気づいた。

 首から漏れた赤いペンダントが、ゆらゆらと揺れていた。

「ねえ、リース。私はこのままでもいいよ。どんなに辛くても苦しくても、私を拾ったのはあんたとセオ院長だから。あんたらのために死ぬのは――」

「メルン、俺の――俺の決意を揺るがさないでくれ」

 震えた声が耳元から聞こえた。私が驚いてリースの顔を見ると、彼は苦しそうに呼吸を繰り返していた。こちらを少しも見ず、震える手に力を入れて、縄に体重をかけて、下へと押し切る。ナイフがかすり、私の腕に一筋の薄い傷が付いた。

「リース――」

「何も言わずに、俺の言葉を聞いてくれ、メルン。君は今まで俺と妹のために尽くしてくれた。ただの一度、君のことを手助けしただけなのに、君は全てを投げ打って、俺らを救おうとする。確かに、ラーネに降りかかった不幸は、彼女の罪ではない。だけれど、君が背負うべき不幸でもない。君は何者の不幸も背負うべきではない」

 リースは震える両の手で、私の手を強く握り込んだ。指先は緊張のせいか、ひどく冷え切っており、その口から発せられる声も、あの日のような覇気のあるものではなく、どうにか絞り出した弱々しいもの。

「俺は――。俺は、これからこの街を出て、ハウゼに向かう。君についてはいけない。きっとラーネを連れたままでは逃げ切れないからだ。だが、きっと妹を治して、必ず君と再会する。これは、俺とラーネの決意だ」

 彼の口から、らしくない言葉たちが紡がれる。それと同時に、あまりに他人事だったこの世界が色づいたように思えた。膿垂の傷が痛み、夜空から降りてきた冷や風が身を裂いて――リースからは血の気が失われているように感じられた。

「いいかい、メルン。絶対に生き延びてくれ。その先で自らの幸福を掴み取ってくれ」

「リース、それは――」

 リースは、夢物語を話すことはなかった。賢いからだ。彼には数手先の未来が常に見えている。彼が言ったことは、実現不可能なきれいごとだ。私の行く末だって、分かったものではない。私は、ようやく実感した。この兄妹は、私のために命を賭ける覚悟をしてきたのだ。それを理解した瞬間、私の魂がずっしりと重みを伴ったように感じた。胸の底が澱のように凝り、肺に積もった感覚が、息苦しさを導いた。

 自分が持つ命というものがこんなに重くなるなんて――思わなかった。

 私は無様だろうと、これを拒絶したかった。いやだ、私を犠牲にして生きて、と。自分の命の価値を跳ね上げられた瞬間、背負わなくてはいけない何かがここにはあった。 

「――っ」

 だが、小児のような我儘は喉元で詰まって、少しも言葉にはならなかった。情けないからか、恥ずかしいからか、いや、全部違う。リースの言葉に惹かれてしまったのだ。自分が幸福であるという未来に。何の気兼ねもない、確固たる不幸の予言のない日常。そして親友がそれを祈ってくれているという事実が、断らせない状況を作り出していた。 

「わかった、リース。あんたの願い、確かに受け取った」

 私は、その一語一語を噛み締め、全てに意識を乗せて発した。リースに伝えるためでもある。だが一番は、自分の中に刻み付けるためだった。

 ガヤガヤと、怒号にも近い祭囃子が聞こえた。

 周りが騒がしい、それは儀式の時間が近づいている証左である。私の言葉にリースは頷きだけを返し、台にかけていた松明を地面に転がした。乾燥した冬の空気は、炎が枯草を犯すのを良しとする。まるで最初から決められていたかのように、炎は柱まで駆け、瞬く間に天に昇ろうとする。寂れた馬小屋に火の手が回るのはあっという間だった。

「裏口から、山を登るんだ。人払いはしてある。山は、道がないところを選べ」

 そしてリースは、大声で叫び散らす。

「巫女の野郎! 身体に火を点けやがった! 畜生! なんも見えねえぞ!」

 私はあまりに似合わないその姿に吹き出した。リースも、薄く笑いを讃えていた。だけれども軽口を叩く時間は、もう私達には残っていない。彼も、いずれフードを被り、踵を返し、呟くように言った。

「会ったときに幸福自慢でもしてくれ、メルン」


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