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第二話

 今の食事はそんなことをせずともよい。少し、精錬の甘いパンであろうと、あの面倒な手続を踏む必要はないし、私には『清ら水』を少量だけ飲む、という義務もある。わざわざ唾液でふやかす不便は取らなくてもよい。

 扉がノックされた。軽く返事をすると、扉を開いた給仕係が恭しく礼をした。

「巫女様、リース様がいらっしゃいましたが」

「いいよ、通して」

「かしこまりました」

 通されることは想定されていたのだろう、リースは給仕と入れ替わりで部屋に入った。

 過去の回想から帰ってきてみれば、リースはだいぶ背が伸びた。身体に筋肉が浮かび上がるほど逞しくはなっていないが、今、彼と喧嘩したら負けるだろうなと思った。

「メルン、久しぶりだな」

「数ヶ月ぶりだね」

「四ヶ月だ。ここの所は特に不作続きで新月病もひどい」

 リースは私の対面にある椅子に腰かけるとため息を吐いた。

「なんとなく感じてはいたけど、きつくなってるみたいだね」

 彼は静かに頷き、私の皿から一つパンを取り上げた。

「レーチヤは、俗に言う『巫女の奇跡』を受けてから、自給自足を行ってきた。言ってしまえばそれは甘えでもあったが。もちろん膿垂症の治療法を研究している者もいたが、支援のほとんどは、街長のゲブールへ、正しくは君へと切り替えられた。だが、その支援のほとんどはゲブールの懐に入って、君には不幸の報酬が渡される。これが現在のシステムだ。だが、君の特性も新月病までは庇いきれない。レーチヤは滅びの道を辿っている。この色が付いてしまったパンは、そのままレーチヤの苦境の濃さだ」

「膿垂症に資金を割けって伝えたはずなんだけど、ゲブールに話は通じないね」

 私は柔らかいパンを口に運んだ。形だけの施しは、いつも贅沢に姿を変える。

「私達は――一歩遅れたね」

 リースはパンを皿に戻し、深く、ゆっくりとかぶりを振った。

「三歩ほど、だな。一歩目はセオ院長の逝去の時。二歩目は君を巫女として祀り上げる噂の流布の時。三歩目は巫女を中心とした社会の完成の時だ。君の言う一歩は、ちょうどこの三歩目にあたるだろう。だが、俺たちにどうにかできる力はなかった。君の存在がゲブールに露呈しなかったら、この街は生き永らえただろうか。より早く滅んだだけだ」

「で、今日は私達の無力さを説教しに来たの?」

 私がからかい半分で聞くと、リースは苦笑いをした。

「俺はそんな聖職者じみてるか? ――近いうち、ゲブールは街から消えると僕は考えている。膿垂症は君のおかげで罹る者はほとんどいない。だが、新月病は蔓延るばかり。当事者のいない不平不満の矛先は、メルン、いずれ君へと向くだろう」

「だろーね」

 私は、衣服をあばらまで捲り上げた。胴に巻かれている包帯を外すと、赤黒く爛れた皮膚が露わになり、粘り気のある膿がべっとりと糸を引いていた。次第に、臓物から何かが漏れているのか、悪臭が漂い始める。リースは私の傍へ跪いて、傷を拭い始めた。

「相変わらず、狂ったシステムだ。膿垂症を調べ、治療する技術も資金もレーチヤにはない。だが、俺たちは『清らの水』を、使わざるをえない。だから、君の体質を以て、レーチヤ街民約千人の膿垂症を君に引き受けさせる――」

 リースは私の身体から目を逸らさなかった。膿垂症のせいでできたボコボコとした傷を擦らないように血と膿を拭い、薬を塗りつける。この作業を、世話係に任せると、嗚咽を漏らし、傷を極力見ないように雑に拭う者が多い。だから普段は、自分でやっていることだが、リースはいつでも私のこの仕事を黙って引き受けるのであった。

 最早、感覚すらないが、リースは私の傷を労り、手つき優しく、処置を終えた。

「私の幸運は周りに配られて、不幸は全部吸い上げる――セオ院長が言った通り」

「俺は、例えだと思っていた。実際、君はこの役目を自分の意思で買って出ている。それはとてつもなく高貴な自己犠牲だ。例え、君がこの特性を持っていなかったとしても、セオ院長は同じことを言っただろうな。だが、君が許容しているとはいえ、これを考え付いたゲブールは邪神に魂を売ったんじゃないかと考えてしまう」

「そんなご立派なもんじゃないよ。正直言えば、あんたとラーネが無事なら、なんでもいい。ゲブールがこのシステムを作る前に私がなんて呼ばれてたか、覚えてるでしょ」

 リースは、その言葉にすぐには答えなかった。ただ黙々と手を動かし、包帯を巻きつけていく。私も、言葉を急かさなかった。聞いたものの、彼は恐らく覚えているだろう、と思ったからだ。彼が、友人への侮蔑を忘れることはあり得ない。リースは包帯を巻き終えると、こう吐き捨てた。

「覚えているが、口にしたくもない軽率な言葉だ」

 包帯を留めると、リースは席に戻り、険しい顔で茶を啜った。

「メルン、そろそろ決めた方がいい。ここは危険だ。やがて君の二つ名を思い出した民衆が、君を儀式にかこつけて殺しに来る。逃げるか、このまま受け入れるか」

「それもいつも言ってる通り。あんたとラーネが移住できるなら、私はさっさとおさらばするつもり。でも、その目処が立たないうちは絶対に離れない」

「メルン――」

 リースは立ち上がり、声を強く飛ばしたが、

「リースは死をも恐れない聡明な男だ、セオ院長の言葉はいつだって正しい。だけど、あんたはラーネが死にゆくのを耐えられる? 彼女は新月病に罹ってしまった。今、膿垂症に罹るのは致命的だよ」

「それは――」

 妹の話になると、彼はいつも押し黙ってしまうのだった。意地の悪い意見の通し方だとは思う。優しい彼に、天秤を掴ませるやり口だから。私はできるだけ朗らかに写るように笑ってみせた。

「いいって言ってんの。あんたたちが生き延びてくれれば、それでいい。それに、あんたが言うように、私が他の街へ行ったところで、迫害に遭うのがオチ。それならせめて、君らを見捨てた惨めな最期よりも、華やかな終わりが欲しいの」

 これは、ほとんど本心からの言葉だった。

 そしてリースが、残されたただ一人の家族であるラーネを、何よりも大事に思っていることも間違いないことだ。彼は、これまでにないくらい悲痛な表情を浮かべた。

「分かった。メルン、すまない――」

 彼は、謝罪の言葉だけを残して、立ち去った。

 それから程なくして、ゲブールは街から姿を消した。

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