「紗那ぁ? 時間、大丈夫なのー?」
階下からの母の声で目が覚めた。
「あれ……」
自分の部屋にいる?
私、冥界で泣いてたはずなんだけどな。
その後の記憶は無いんだけど。泣いたのは確かなようで、瞼が重い。
母は、私が深夜に帰宅したと思っているようだ。どうやって帰ってきたんだろう……。
身体を起こしてみれば、私はベッドに横たわっていた。汚れたビジネススーツのままで、パンプスも履いたまま。
左の脛に、青々とした葉っぱが乗っかっている。
「治ってる」
流血していた脛の傷は跡形もなく、痛みもない。
これ、篁が──?
私をここまで運んでくれたのも?
「よし、行くか」
両手でピシャリと頬を叩く。
私には、やるべきことがあるんだ──。
◇
朝の歩道橋。
真ん中から下を覗くと、たくさんの車が行き交っている。ここから飛び込めば、シュンちゃんのところへ行けるかな。
どうして?
どうして、私を置いて逝っちゃったの? シュンちゃんがいない世界なんて、何の意味もないよ。
きっと一瞬で済む。
ねえ、シュンちゃん。私も、今そっちへ……。
「ああっ! ちょっと動かないでっ!」
歩道橋の柵に手を掛けた時、大きな声がかかって思わず足を止めた。ビジネススーツを着た女の人が腰を屈め、目を皿のようにして地面を見つめている。
「コンタクト落としちゃって」
女の人は弱り切ったように言った。
「た、大変ですね」
私も、レンズを踏まないように慎重に足を動かす。やがて、
「あった! 良かったー。どうもありがとう!」
女の人は無事コンタクトレンズを見つけて歩いて行った。大して役に立ってないのにお礼言われちゃった。
颯爽とした後ろ姿。
一本に結わえた黒髪が揺れてる。
あれ?
あの女の人、どこかで──。
もしかして、あのとき救急車を呼んでくれた人?
慌てて後を追ったが見失ってしまった。この辺、通勤ルートなのかな? 明日もこの時間に来たら会えるかしら。
待って。あの人、何で事故現場にいたんだろう。山に入るには似つかわしくない格好だった……。
そこまで考えて虚無感に襲われた。
どうだっていいじゃない。
これから死のうとしてるのに。
コンタクトレンズなんてどうでもいい。そんなの無視して飛び込めばよかった。
なのに、一緒になって探し物したり人の後を追いかけたり。
もう死のうって決めたのに、どうして生きようとしちゃうんだろう──。
左手の薬指がふいに熱をもった。シュンちゃんからの贈り物。小さなダイヤが埋め込まれた
──それで良いんだよ。
シュンちゃんが、笑ってるような気がした。
◇
「……ファイト」
路地裏に隠れてエールを送った。
左手薬指のリングに手を添えて肩を震わせていたアコさんは、やがてグイッと顔を上げて一歩を踏み出していく。
シュンタさん。
確かに、見届けました。
きっと大丈夫。しばらくは、涙が出る日もあるだろうけど。
私は、鞄の中に腕を突っ込んだ。
今日もまた、畳敷きの不思議な空間に降り立つ。
「紗那ちゃーん」
閻魔さまがポンと湧いて出た。相変わらず、どこからでも現れる。
「色々あったみたいだけど大丈夫? もう来てくれないかと思ってたよ~」
私の手を取る閻魔さま。
つくづく上司に恵まれたなあ。
「これからも頑張ります。まだ、篁さまのように冷静ではいられないかもしれないけど」
「あいつが冷静か……。どうかな。ヤツも所詮は元人間だからね」
普段はチャラい閻魔さまが、ふと真面目な表情になる。それは一瞬のことで、「あれっ?」と思った時にはもういつもの閻魔さまだった。中央の席に向かって呼びかける。
「おーい、篁! 紗那ちゃん来てくれたぞー」
「……フン」
「愛想ないなー」
さあ、仕事だ。
「うむ。大往生であるな」
今日も、篁が羽扇を振る。
「この後のご説明は私が引き受けます。何か、心残りはございませんか?」
〈了〉