「でも、美代さんのおかげで庭が本当に見違えました。あのままでは、カサンドラ嬢を迎えるのも恥ずかしかったでしょう」
美代はステファンの言葉に、胸がさらに痛んだ。自分はステファンからの信頼を裏切るようなことをしようとしている。
「……ステファン様、私は……」
言葉が喉に詰まる。ステファンを騙すことへの抵抗感が、美代の中で膨らんでいく。だが、同時に、煌達の事も思い出された。自分を助けようと必死に動いてくれている煌達を裏切るわけにはいかない。
その時、四郎が再び小さく鳴いた。
答えるように、美代は床へ視線を移す。
「あっ!シロ!お前にもミルクを持って来てたんだ!すまない!お腹が減っているのだね?」
ステファンが慌てた。
「あー、そうじゃなくて、あたい用事を思い出したから、行くね」
「シロ、もう遅い。何も今から出ていかなくても……何の用があるんだ?」
「……猫には、猫の世界が
あるんだよ。ステファン……」
四郎は、どこか警戒するように、ステファンへ冷たく言い放つ。
「じゃあ、美代ちゃん、あたい、行くね。後のことは何も心配いらないよ」
四郎の声は厳しかった。美代を気遣っている様に聞こえる言葉は、恐らく迷いを叱るものなのだろう。
これから四郎は、煌の所へ行くつもりなのだと、美代は察した。
そして、立ち上がり、四郎を外に出すためドアを開けようとした。
しかし、色々な気持ちが交差して、ドアノブを上手く回せない。
ドアが開くのを待っている四郎は、美代を見上げ、
「美代ちゃん、頼んだよ……」
と、ステファンに聞こえない様に囁いた。
美代は、動揺を隠しつつも、どうにかドアを開け、四郎を見送る。
黒い小さな影は、何事もないかのように外の闇に溶け込み、あっという間に消えてしまった。
四郎に言われた言葉が、美代の心に突き刺さる。今から、自分は、一人でステファンと向き合わなければならない。いや、欺くのだ。
ステファンの優しさは確かに本物だろう。ただ、だからといって、煌達の懸念が消えるわけではない。ステファンが何を考えているのか、そこから確かめる必要があるはずだ。
美代の指先が自然に震える。ステファンに悟られてはいけないと、ギュッと拳を握り誤魔化した。
そのステファンは、サンドウィッチを食べ終え、飲み物を飲んでいる。
「美代さんは、今夜は早めに休んでください。明日からは、忙しくなる。カサンドラ嬢が来るのは三日後ですからね。あまり時間がないです。もちろん、私も準備を手伝いますよ」
美代はステファンの顔を見ることができず、ただ頷くだけだった。
胸の中では、葛藤が渦巻いている。ステファンを騙すことへの罪悪感と、煌達への責任感が、美代の気持ちを引き裂いている。
だが、やるしかないのだ。
部屋の中でランプの灯りが静かに揺れている。美代の心もまた、その灯りのように揺れ続けていた。
──部屋の中は、ランプの灯りが揺れるたびに影が踊り、静けさが一層深まる。美代はサンドウィッチを手に取ったものの、ほとんど口をつけていない。
「美代さん、あまり食べていないようですね。疲れているのなら、無理に食べなくてもいいですよ」
ステファンの声は優しく、気遣いに満ちている。だが、その優しさが今、美代の胸を締め付ける。しかし、自分には役目がある。美代はなんとか笑顔を作った。
「ありがとうございます、ステファン様。少し考え事をしていただけです」
応じる美代の声は弱々しく、どこか無理をしているように聞こえた。
ステファンはその様子をじっと見つめ、眉をわずかに寄せる。
「考え事、ですか。……もしかして、カサンドラ嬢の事が気になっているのではありませんか?」
ステファンはそう言って、軽く笑ってみせる。だが、その笑顔の裏には、明らかに探るような色が浮かんでいた。
美代は一瞬、息を呑んだ。自分の役目、煌達の動きを知られてはいけない。ステファンが、どこまで気づいているのか分からない。ここは、カサンドラ嬢の話へ切り替えるのが得策かもしれない。
「あのぉ……カサンドラ嬢がどのような方なのか……そのぉ……私がお相手できるのか心配なのです」
美代はできるだけ平静を装う。
「そうですか……」
ステファンは少し考え込むように顎に手をやり、それからゆっくりと頷いた。
「確かに、そうですね。ですが、美代さんが緊張するようなことはありませんよ。きっと、美代さんなら、すぐに打ち解けるでしょう」
ステファンの言葉は、当たり障りのないものだった。恐らく美代を安心させるためのものなのだろう。
ただ、美代の心には別の思いが渦巻いている。カサンドラ嬢が来るということは、この屋敷に更に人が増えるということを意味する。もし、ステファンが、もてなしの席で美代の正体を口外したり、カメラの写真が何か問題を引き起こしたりすれば、事態はさらに複雑になるはずだ。
「ステファン様、カサンドラ嬢はどのようなご用がおありなのでしょうか? 滞在中に、何か特別な準備が必要でしょうか?」
美代はカサンドラについて質問を続けた。
ステファンは一瞬、美代の質問に驚いたような顔をしたが、すぐに微笑んで答えた。
「彼女は、祖国ではかなり裕福な商家の出身で、芸術や音楽に精通しています。……まあ、彼女の訪問は社交的なものでしょうが、実家であるオーランド商会との取引の話も絡んでくる。ですから、彼女の機嫌を損ねるわけにはいかないのですよ」
ステファンの口振りには戸惑いが伺えた。
美代は頷きながらも、カサンドラ嬢が来ることで、ステファンの注意が分散されるかもしれないと期待した。それは、カメラのありかを探る絶好の機会になる可能性がある。
「では、ステファン様、カサンドラ嬢の滞在中、私はどのような役割を果たせばよいでしょうか? 通訳と言われましたが、私は……」
美代は言葉を濁した。自分が異国の言葉を話せないのは、周知の事実だ。カールが言った様に、言葉が出来なくては、通訳も、話し相手も勤まらないのではないか。
「美代さん、カサンドラ嬢は日ノ本の言葉を少し学んでいるはずです。ですから、完璧な通訳が必要なわけではありません。それに、女性同士話せる相手を求めていることでしょう。美代さんがいてくれれば、きっと退屈しないはずだ」
ステファンはそう言って、美代を安心させようとばかりに微笑むが、ふと真剣な表情になり、美代をじっと見つめた。
「ところで、美代さん、……シロは、あれは一体何だったのですか? 喋る猫なんて、普通ではありません。あなたが妃候補であることも含めて、私はまだ納得できていないことが多い……」
美代の心臓が一瞬跳ねた。ステファンはやはり、すべてを飲み込んでいるわけではなかった。
「ステファン様……」
しかし、今はすべてを話すわけにはいかない。とはいえ、ステファンを完全に騙すことは耐えがたい。
「美代さん、私はあなたを信じたいと思っています。ですが、あなたがまだ何かを隠していると感じるのです。話せる範囲で構わないので、教えてはもらえませんか?」
ステファンの声は静かだが、どこか切実だった。
「ステファン様、そのぉ、できれば妃候補ということは、誰にも口外しないでください。シロちゃんは……隠密猫なので喋るんです。でもその事も……あのぉ、私は、あまり話せないんです!」
「なるほど。美代さん、あなたが話せないことがあるのは理解しました」
ステファンは美代の切羽詰まった様子に、これ以上聞くのは良くないと判断したのか、はたまた、美代の説明に一応の納得を示したのか、とにかく場を和らげようとばかりに微笑んだ。
美代はその笑顔を見ながら、胸の中で罪悪感がさらに膨らむのを感じていた。
ステファンは確かに優しく接してくれる。けれど、美代には使命がある。煌達の計画を成功させるため、そして自分自身の立場を守るため、ステファンを見張り、カメラのありかを探らなければならない。ここで洗いざらい話すことは出来ない。
ランプの灯りがゆらりと揺れ、二人の影を壁に映し出す。部屋の中は再び静寂に包まれ、時折、外の風が窓を揺らす音だけが響いた。