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第62話

 どこか殺伐とした空気が流れる中、長寿庵に集まる者たちは黙々と蕎麦をすすっていた。


「まあ、店の名前にあやかって、御前様の長寿を祝おうかと思ってなぁ」


 蕎麦屋の二階広間に、一代かずしろの軽薄な声が響く。


 腹ごしらえに誘われた煌は、ここで祖父の宗右衛門と出くわすとは夢にも思っていなかった。これは、おそらく偶然ではなく、必然的なものだろう。


 煌は、集まった面々に動揺を見せないように努める。


 広間の上座に座る宗右衛門は、鋭い視線で煌を見つめ、その瞳の奥には何人にも読み解けない感情が燃えていた。


「……煌。女学校はどうした?」


 宗右衛門の声は空々しく響く。


 職人と丁稚奉公の姿をした八代と煌を見て言ったのだろう。


「……任務の途中です」


 煌は重々しく答える。


「ありゃりゃ、やっぱり、誘わなかった方が良かったかい?」


 一代かずしろが当然の顔で割り込んでくる。


 その軽薄な態度に煌は苛立ちを覚え、何を隠しているのかと責め立てたい衝動に駆られる。


 その時、背後で蕎麦をすする音が聞こえた。


「八代……!!」


 煌が振り返ると、従者の八代も術にかけられていた。宗右衛門が静かに箸を取る。やられた、その一言が頭をよぎる。


 八代は宗右衛門によって術をかけられたのだ。煌は格の違いをまざまざと見せつけられた気がした。


 とろんとした眼差しで蕎麦を食べ続ける八代に声をかけるのも無駄と悟った煌は、宗右衛門との対決に備える。


 八代まで術にかかってしまい、一人きりになった感覚の中、先が読めない煌は、自分の未熟さを痛感していた。しかし、ここで弱さを見せるわけにはいかない。


 煌も素知らぬ顔で箸を取った。


「……時に煌よ」


 かけ蕎麦の器を持ち上げながら、宗右衛門が平然と話しかけてくる。


「……三門みかど様はいかがなされた?」


 煌が任務中と言ったからか、宗右衛門は美代みよのことを尋ねてくる。


 煌の任務は、妃選出家である三門家を守ること。従姉妹でもある美代の警護が主な仕事だ。


 宗右衛門がわざわざ尋ねてくる理由は、何かを疑っているからだろう。八代に術をかけて煌を孤立させることで、言い逃れをさせないつもりかもしれない。


「お健やかですが?何か?」


 疑念を抱きながら、煌は言葉を選んで答える。


 宗右衛門は返事をすることなく蕎麦を食べる。どこまで誤魔化しが通じるのか、煌は焦りを感じた。


 美代が居留地で女中めいたことをしていると分かれば、どうなるだろう。一代かずしろはおそらく気づいているはずで、告げ口されると厄介だ。


 湯気が立ち上る蕎麦の器が煌には疎ましく思える。


 何がなんでも、宗右衛門を誤魔化さなければ。


 焦燥感の中で次の手を考えていると、白い影が過ぎった。


「御前様」


 四郎が宗右衛門の前に飛び出し、囁く。


「おお、四郎。どうした?お前も蕎麦が食べたいのか?しかし、猫は蕎麦を食べるものなのか?」


 宗右衛門は箸を止め、四郎に目を細めた。


「あのぉ、美代ちゃんなんだけど、ちょっと厄介なことになっていて……。あたいは、御前様のお力を借りた方が良いような気がしてるんだ……」


「ほお、そうか」


 宗右衛門の軽い返事に、煌はまたしてもやられたと感じた。この一言は、おそらく、美代に何が起こっているか宗右衛門ならずとも、全員が知っているということかもしれない。


 そのために、この蕎麦屋で俳句の会などと理由をつけて待機していたのだ。宗右衛門の落ち着いた態度に、煌は密かに恐怖を覚えた。


 煌はそもそも女学生で、隠密家に生まれたゆえに頭と呼ばれているだけだ。


 常に一門を束ねる、頭として立つという無理があるにも関わらず、煌は自分の宿命を受け入れ、さらには、美代の警護に当たっている。


 そして、見事に美代を連れ去られてしまった。それも、異国人に……。


 その美代の状況が宗右衛門に知られている可能性は高く、この繰り広げられている茶番劇で、煌が無能な頭だと示そうとしているのかもしれない。


「しかしなぁ、四郎や。わしは、隠居の身ぞ?煌がいるであろう?」


「でも、煌ちゃんも手を焼いてるんだよ……」


 四郎の言葉に、煌は悔しさを噛みしめながら箸を握りしめた。猫にまで核心を突かれたこの現状に苦悩が募る。


 隠密の仕事を全うしているのに、ここまで悔しい思いをしなければならないとは。煌の心は、かきむしられていた。


 だが、美代を連れ戻せるのは自分だけだと、煌は思い直す。居留地に立ち入る為に必要なものは、すべて揃えたのだから──。

 それらを上手く使えば国家間の問題にもならず、穏便に何事もなく事を収められる。


 宗右衛門に、果たしてそれができるのか?


 術を使った所で、国の決まり事は微動だともしないだろう。


 居留地で一番必要なのは、数々の発行証なのだ。


 煌は、四郎の告げ口に近いものに苦々しさを感じていたが、居留地の仕組みを思いだし、策は自分の手の内にあるのだと確信した。


 気持ちを切り替え、ふっと自信ありげに口角を上げると、四郎の話を聞こうとしている宗右衛門を見据える。


「四郎、お前がそこまで言うとは、どうしたことだ?正直に言ってみなさい」


 宗右衛門は、箸を置き四郎に問うた。

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