「だ、旦那様!」
台所へ向かうステファンを止める声がする。
「ああ、カール」
「お部屋へ向かう所でした……」
何か、歯切れの悪さをカールが見せる。
「……カサンドラ嬢のことは、お前に任せる。そうだな、適当に返事をしておいてくれ」
カールの態度に、余程無茶な要望が書かれてあったのだろうと読み取ったステファンは、やはり、関わりたくないと、自分よりも物事を分かっている執事へ押し付けた。
カサンドラ嬢の父親、オーランド氏は、王国一の商人と言って過言ではない人物で、貴族には執拗におべっかを使って近寄っている。
自分の格を上げようと、使える者は誰でも使い離れないと、社交界の噂話にもよく挙げられていた。
社交界のあれこれに疎いステファンでさえ、噂のことは知っており、その娘、カサンドラの横暴な態度を、幾度かかち合った舞踏会で目撃もしていた。
そして、カサンドラも父親と同じく、目的の為に動く女性で、ステファン含め、独身の男性貴族は、皆、一度は付きまとわれている。
もちろんステファンも、カサンドラから、様々な誘い誘いを受け続けた事があった。
おそらく、ステファンの伯爵という地位に目がくらんでいるのだろうと、カサンドラからの誘いは、カールが丁重に断りを入れていた。
日ノ本の国にステファンが異動することになり、カサンドラとも縁が切れると、ほっとしたのだが、まさか、速達を送って来るとは……。流石のカールも、そこまでは読めなかったようで、冷静沈着を絵に描いた様な執事長も、まるっきり余裕が見られない。
「わ、私がですか!」
ステファンの要望に、カールは裏返った声をあげた。
「ああ、そうだ。今までもカール、お前がやっていただろう?済まないが、チョコレートが溶けてしまう。退いてくれ」
またチョコレートのせいにして、ステファンは、立ちすくむカールの脇を通り過ぎる。
「だ、旦那?!ステファン様?!そんな!!私がですか?!」
珍しく慌てる執事の姿など目に入らないのか、はたまた、それほど急いでいるのか、ステファンは台所へ向かって行った。
長い廊下を歩み、玄関ホールへ続く大階段を下る。
ホールの床を、コツコツ鳴らしながら、ステファンは、脇の廊下へそれた。
裏方の台所へ続く、板張りの床の廊下は薄暗かったが、特に気にすることもなく、ステファンは、包みをしっかり抱えて進んで行く。
暫く歩むと台所の入り口が見えた。
「美代さん?」
少し戸惑いながら、ステファンは声をかける。
先程、互いに乱れた姿を晒したばかりだ。居るであろう美代へ向ける顔が無いと、ステファンなりに遠慮していた。
「美代さん?あれ?いない?」
覗き込んだ台所は、もぬけの殻だった。
「ああ、部屋か?」
確かカールが何か言っていた。もしかしたら、自分が部屋へ戻っていた間に美代はカールから愚痴を聞かされ、下がるように命じられているのかもしれない。それを示すかのように、作業台には、サンドウィッチが置かれたままだった。
申し訳ないことをしたと思いつつ、ステファンは、夕暮れ時の西日が差し込んで、うらぶれた感じの雰囲気を醸し出している台所を通り抜けると、裏口から、美代の部屋として与えている使用人小屋へ向かった。
裏口のドアを明け、外へ出たステファンの頬を、冷たい空気が撫でて行く。
夕方という時刻柄、気温も多少下がって来たのだろう。
美代は寒さに震えていないだろうかと思いつつ、数歩進んで、小屋のドアの前に立った。
遠慮ぎみに、ドアをノックして、美代の反応を待ってみる。
思えば、かなりの事が重なっていた。
事故、と言える美代との接近に始まり、互いに感情をぶつけ合い……。これは、返事もして貰えないかもしれないと、ステファンは、弱気になっている。
自然、包みを抱える手に力が入る。
チョコレートは、あの突発的な事故といえる接近に対して詫びる気持ちもあったのだが……、立て続けに、気まずい事が起こっている今では、まず、美代と顔を会わせることからが、困難なのかもしれない。
そんなことを思いつつ、緊張しながらステファンは、再度ドアをノックしてみる。
はい、という小さな返事がドアの向こう側から聞こえて来る。確かに、美代の声だった。やはり、部屋にいたのかと、応じてくれたことにステファンは、ほっとした。
「シロちゃん!!戻ってきたの!!」
弾ける声と共に、ドアが勢い良く開かれた。
「あ、いや、その、シロではないのですが……」
「……ステファン……様」
「あ、あの、まあ、その、色々ありましたが、大丈夫かなと思い……というより、色々あったことへのお詫びを渡しそびれていました」
しどろもどろになりながら、ステファンは、気まずさを誤魔化すように、包みを美代へ押し付ける。
「美代さん!リンツェルマットのチョコレートです!」
「はい?」
目の前に、包みをさしだされて、美代も固まった。
突然の贈り物を、素直に受けとるべきかどうか、迷いがあったのだ。
「あ、あの、遠慮せずに。美代さんへの土産ですから。このチョコレートは、とても美味しいのです!しかも、一粒一粒、動物の形に細工されていて、食べるのが勿体無いくらい、見た目も可愛らしい!」
ステファンは、様々な思いを吹き払うべく、早口で捲し立てた。