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第55話

「ああ、今日は、しごく気分が良くてな。ここの蕎麦を食べに来た。それだけのことよ」


 ははは、と、こちらもあからさまに煌をはぐらかすように笑ってくれる。


「……いったい何をお考えなのですかっ!」


 焦りを隠すことなく呟く煌。その前へ、八代が歩み出る。


「御前様、お戯れが酷すぎます!我らは、お頭、煌様に忠誠を誓っておりますのに!これは?!裏隠密までお使いになり、何を企てておられる!!」


 八代は、煌のために抗議の声をあげた。


 身を引いた先代とはいえ、一度はお頭と呼ばれていた宗右衛門に向かって意見するのは、門代家に歯向かうも同然のこと。隠密の法度を破ってまでも、意見する程、八代も驚いているようだった。


「八代!控えろ!」


「しかし、お頭!これは!!」


「ここは蕎麦屋だ。おじじ様が仰る通り、蕎麦を食べながら話そうではないか……」


 静かに言う煌は、一種挑むような笑みを浮かべている。


 八代は、思う。勝負を受けたのだと──。


 表から、豆腐売りが吹くラッパの音が流れてくる。夕飯に豆腐をどうだと売り歩いているようだ。


 気がつけば、そんな時刻になっていた。


 日が陰げり始めた蕎麦屋の二階広間では、先代と当代、祖父と孫娘の視線が熱くぶつかり合っている……。


 同じ頃、夕暮れの気配を感じながら、ステファンは自室の窓辺に立ちすくんでいた。


 カーンと時を刻む鐘の音がする。


「もう、こんな時間か。いつの間に……」


 今日は、どうして時間が経つのが早いのかと、部屋の暖炉の上に置かれているからくり時計を見た。


 一定の時間が来れば、文字板の上に備わる鐘を、小鳥が啄む仕組みになっている。


 役目を果たした小鳥は、動きを止めて、時計の装飾の一部になっていた。


 自国から持って来た、最新型の置時計だ──。


 ステファンの国、ドラムント王国は、機械工業、それも精密機械の製造で名を馳せている。


 カメラも他国に先駆け、小型化出来た。その最新技術を、他国へ売り込むのが、王国大使付の秘書官であるステファンの勤めだった。そしてその商品となる機器の販売を、王国で一手に担っているのは、ステファンのもっとも苦手とする人物だった。


「まいったな、まさか、カサンドラ嬢から……、速達が届くなんて」


 その苦手とする人物、オーランド商会を取り仕切る、ジェレミー・オーランドの一人娘、カサンドラからステファン宛に電報ではなく、速達が届いた。わざわざ書簡を選んだと言うことは、長文になる知らせなのだろう。


 つまり、単なる時候の挨拶ではなく、電報ではまとめられない長さ、更に急ぎの要件ということだ。それは、いったい……。


 カールが、直ぐに知らせにやって来るはず。が、なかなか現れない。


 自分で内容を確かめれば良かったとステファンは後悔していた。


 こうして、落ち着かない気持ちを押さえようと、先程から外を望んでいるが、ふと、窓ガラスの曇りが目につく。


「新聞紙が、役立つんだった……」


 美代と行った窓拭きのことを思い出した。


 初めての掃除体験。しかも、新聞紙というものが役に立つとは思ってもみなかっただけに、ステファンの心に強烈な印象を刻み込んでいる。


 そうなのか?窓拭きがあの様に行われるということを知ったからか?いや、新聞紙をあのように使うということが、衝撃だったのではなかろうか?いや……。


 ステファンの脳裏に、一生懸命、掃除の仕方を手解きしている美代の姿が思い起こされた。


 再び、ステファンの胸が締めつけられる。


「……なぜなんだ?この気持ちは……一体。どうして私は……」


 苦しいと言うべきか、何なのか、いや、どうして、美代の事を思い出してしまったのか。


 自身の気持ちが、ますます分からなくなり、ステファンは、そっと窓辺を離れる。


 ガラス窓の曇りは、気持ちを混乱させた。


 コンコンとドアをノックする音がする。


 カールがやっと来たのかと、ステファンは、モヤモヤする心持ちを振り切るべく、勇み足でドアへ近寄ると、勢いドアノブを握り、さっと引いた。


「うわっ!!ドアが勝手に開いたよっ!!」


「なんだ、サリーじゃないか。何をしているんだい?」


 ステファンが、思わず開けたドアに、サリーが腰をぬかしそうになっている。


「な、何って?!ステファン様!いきなりドア開けないでくださいよぉ!はい。って、返事が出来ないんっすかぁ?!」


「お前こそ何をしているんだい?」


「そもそも、なんだって、なんすっかぁ?!あっ、オレ、持って来たんっすよ!御者が、ステファン様の忘れ物だって」


 御者に、馬車の中に忘れていたと、サリーは託けられたらしく、包みをステファンへ差し出して来る。


「あっ、そうだ。美代さんへお土産があったんだ!」


「え?なんで、美代に?オレは一度も土産なんかもらったことないっすよ?!」


「それは、サリーだからだろ」


「え?!オレだったら、土産もらえねぇーってこと?!ええ?!どーゆーことですかっ?!」


「うん、それは……。そうだな、どうゆうことなんだろう?」


 またもや、すっきりとしない気持ちに襲われたステファンは、


「中身はチョコレートだから、溶けてしまう。サリー済まないが退いてくれ。美代さんへ渡さないといけない」


 何か言い訳のような台詞を吐き、包みを受けとると、サリーの脇を通り抜けた。


 カサンドラからの便りも気になるが、チョコレートを美代に渡さなければと、ステファンに使命感のようなものが、沸き起こっている。


「台所にいるだろうか?」


 誰に言う訳でもなくステファンは呟き、美代の元へ急いだ。


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