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第53話


 その視線にカールが気付く。


 コホンと、空々しい咳払いをして、


「美代!お前は、何をしていた!これから忙しくなる!旦那様……、ステファン様に近づいてはならん!そのような暇があるなら、屋敷の裏方仕事を行いなさい!」


 キツイ口調で美代に当たり散らした。


 もちろん、カールは、美代へ当たっているのではないのだろう。指導しているのだけと言うのが分かりきっている。ただ、美代には、ステファンに近づいてはならないという一節が、ドキリとするものだった。何か、胸を貫かれた様な、引っ掛かるものだったのだ。


 カールにはステファンにすがって大泣きしている所を見られてしまったから、それを注意されているのだろうと、理由は理解できるのだが、なんとなく、それとはまた別の、何かしらが疼くかのような、奇妙な痛みとも言えない苦しさとも言えないものに美代は襲われた。


 何故その様に感じるのか。カールの口調のせい、とも思えず、答えが分からない疑問に支配され、美代は返事すら出来なかった。


「アリエル!美代を、旦那様、ステファン様に近づけるな……」


 カールが、トドメのような事を言った。


 近づけるな──。


 美代は、その言葉にまた泣き出しそうになる。


 何故かは分からない。分からないが、美代には、堪える言葉だった。


 後で話しましょう──。


 ステファンの優しい声が美代の頭の中でこだました。


 帰ることを、いや、ステファンと話すことすら出来なくなってしまう?


 帰る方法を見つけられなくなる。その恐怖?


 しかし、落ち着いて考えれば、帰れない事はないのだ。シロの話では、すでに煌と八代がここに来ている。つまり、待ってさえいれば、二人が美代を迎えに来るはず。なのだが、美代は、それよりも、ステファンと帰ることを話したいと思っている……。それが、カールに妨げられた。


 しかし……。煌と八代が……いるのだから……。


 美代は、何故、ステファンなのかと、困惑しきった。何故、近づくなと言われただけの事が、こんなにも悲しいのだろう。


 そのカールは、アリエルと何か話し込んでいた。


 美代の処遇、ではなく、どうも、封書の内容についてのようだが、とにかく、二人とも相当動揺しているように見えた。


 ここまで、カールとアリエルが慌てるとは、いったい、何が起こったのだろう。


 そういえば、ステファンの事を、旦那様と呼んでいた。サリーが、旦那様と呼ぶ時は、何か大事が起こっているのだと言っていたが……。


 本当に、一大事が起こったのかも?


 美代に、言い放ったカールは、もう美代の事など忘れたかのようにアリエルと強ばった顔つきで、話し込んでいるのだから。


 では、自分はどうすればよいのだろう。言われるまま、ステファンに近寄らない……。


 そう考えたとたんに、美代の心がざわついた。


 そのざわつきが胸を締め付ける。


 ステファンに近寄らない。たったそれだけのことなのに。どうして、自分は、この様に落ち着かず、苦しさまで感じるのだろう。


 我が身に起こっていることについていけなくなった美代は、椅子に座りこみ、うつむく事しかできなかった。


 美代が、得たいの知れない心の動きに戸惑っている頃、その美代を迎えに行く作戦を立てているはずの二人──、煌と八代も、言葉にしがたい心持ちで、一代かずしろの背を追っている。


 行きつけの旨い蕎麦屋があると、飄々と言われ、裏があると分かっていながら煌達は誘いに乗っていた。


「おっ、着いたぜ!」


 確実に何かを企んでいるはずであろう一代かずしろは、ご機嫌な声を出す。


 言われ、煌が望むと間口の狭い民家と見間違えるような二階建ての店がある。


 入り口に暖簾のれんがなければ、気が付かず通りすぎてしまう佇まいだ。


「ごめんよーー!」


 いかにも行きつけの店とばかりに、一代かずしろはガラス戸を軽快に開けて、暖簾を潜った。


 煌も無言で続き、八代は軽く周囲を見回し警戒を怠らない。


「女将ーー!!」


 馴れ馴れしく一代かずしろが、店の奥へ声をかけた。


 四人掛けの卓が並び、突き当たりに小上がりのある、ありふれた蕎麦屋なのだが、すべて満席だった。


「ああ!いらっしゃい!お二階へどうぞ!皆さんお揃いですよぉ!」


 割烹着姿の、店の女将らしき女が厨房からひょっこり顔を覗かせ、愛想良く声を張り上げた。


「おっ、ありがとよ!で、かけ蕎麦、追加で頼む!」


 一代かずしろも負けじとばかりに、声を張り上げ、連れがいると、顎をしゃくって煌と八代を示す。


「はーーい!」


 女将の元気な声がした。


「さっ、二階へ行こうぜ。なっ?繁盛してんだろ?そんだけ、うめぇーのよ!」


 ははは、と笑いながら、一代かずしろは、草履を脱ぐと、二階へ続く階段を上り始める。

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