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第52話

 何故、こんなことをしているのかステファン自身も分からない。ただ、美代を抱き締めたかった。きっと、これは、美代を落ち着かせる為に行っているのだと、執拗に自身に言い聞かせながら、美代を離さない自分がいる。


「帰りたい!!帰りたいよぉ!!ステファン様!!」


 美代が、ステファンの胸にしがみつき、泣き叫んだ。


「ええ、帰りましょう……」


 自分の胸にすがり、泣きながら小さく震える美代の姿を見たステファンは、息が止まりそうになっている。正しくは、動悸が止まらず、息苦しい。


 こんなことは、初めてだった。


 おそらく、女性が泣き叫ぶという特別な光景に動揺しているだけだと、ステファンは、再び自身へ言い聞かせた。


 良く分からない。


 何故、美代が癇癪を起こして、帰ると大泣きしているのか。そして、どうして、美代を抱き締めているのか。


 この騒がしいを越えた状況に、何故、自分は苛つきもせず、なんとかしようとばかりに、必死になっているのか。


 ステファンは、何が起こっているのかよりも自身の心の動きに、驚きを隠せなかった。


 この感情は、いとおしいというもの──。


 おそらくそうだと気がついたステファンは、更に驚愕した。


 何故、どうして。


 シロを抱いて頬擦りした。それは、シロが、小さく、可愛らしく、いとおしいと思ったからだ。


 しかし、それは、猫だから。そして、美代は、猫ではない。


 ……これは、今起こっている事とはいったい……?


 混沌とした気持に陥りつつも、ステファンは、再び美代をしっかり抱き締めた。


「帰りたい……。ステファン様……ステファン様……」


 美代が呟く。


 泣きながらも、自分を頼っていると、ステファンは、面映ゆくなるが、嫌な気持ちはしなかった。


「ええ、帰りましょう。美代さんさん……」


 美代を帰すには、若干どころか、かなり無理がある。通さなければならない手続きを無視してしまっている。ほぼ、どうにもならない状態にいる。だが、美代に帰るところは無いと思い込んで、いや、あの少女の元へ帰してはならないと、妙な正義感を起こし、自分の屋敷で面倒を見ようかと思い始めていた矢先のこと。それなのに、美代は、帰りたいと言いだした。


 事の真意がまた分からなくなりながらも、自分にしがみつく美代を見ると、ステファンは、美代の望みを叶えてやりたいと思わずにはいられなかった。


 が……。


 美代の望みを叶えると、美代は、居なくなってしまう。


 つっと、美代をだきしめるステファンの腕に力が入る。


 口惜しいような、再び分からない感情が心の中を駆け巡った。


(……それだと……、美代さんは居なくなってしまう……。もしかして、寂しい……?私が?)


 先程からの、説明がつかない心の動きにステファンは翻弄された。


 この居心地の悪さが何なのか。それにどう対処すれば良いのが分からずステファンは、困りきる。


「な、何を!旦那様!!い、いや!美代!!何をしている!」


 怒鳴り声が台所に響き渡った。


 ステファンを追ってカールがやって来ていた。


「カール!静かにしてくれ!」


 ステファンには、神経質すぎる従者が言うであろう続きの言葉が分かっていた。


 主人なのだから、裏方の台所になど、立ち入るな。


 そして──。


 どうして美代と抱き合っているのか。すぐに離れろ。


 執事長の威厳を見せるとばかりに、カールは叫ぶはずだ。


「カール!郵便馬車は?!」


 そうでなくても、ステファン自身、混乱しきっている時。そこへ、グズグズと、カールの小言が続くのはたまらない。


「あっ!そ、そうでした!」


 カールは、主人の一言で落ちつきを取り戻そうとしている。


「こ、こちらを!旦那様!」


 今度は、アリエルが血相を変えて、台所へ飛び込んで来た。


 手には封書を持っている。


「美代さん、大丈夫ですか?」


 ステファンは、カールとアリエルの手前、美代を優しく離すと椅子に座らせた。そして振り返り、従者二人を見る。


「……旦那様。カメラは、こちらにございます。まあ、大使の急用ならば、お戻りなったのも、仕方ないでしょう。しかし、再度、面会を!」


「カール、分かっている。今日の約束は、仕方ないだろう?あちらのご都合が悪くなったのだから。私も自分の役目は分かっている。だから、これは、戻って来ても良い案件だろう?私が怠けた、はたまた、過失という話ではないはすだ!」


 ステファンは、カールへ苛立ちをぶつけた。


 予定していた面談は、相手方の都合により流れてしまった。だから、こんなに早く屋敷に戻って来た訳なのだが、ステファンは、カールに小言を言われたくなかった。正当な理由で戻って来たのだとばかりに、口調を強める。


 そして戻って来た瞬間、偶然にも門前で、郵便を配達する郵便馬車と鉢合わせしてしまう。


 と言う訳で、馬車二台か連る事になってしまったのだが、ステファンの乗る馬車が郵便馬車に連れて来られたかのような列びになってしまった為に、カールもアリエルも、主人は、何か大それた事をしでかしてしまったのかと、玄関先で驚いたようだった。


「ああ!カール!速達!それも!」


 カールが、ステファンを迎えている間に、アリエルが郵便を受け取ったらしく封書を握っている。


 カールは、アリエルから差し出された封書を受けとると、宛先と差出人の名前を確認した。


「旦那様……」


 含みを込めて、カールがステファンへ封書を差し出して来る。


「これは……」


 封書は、ステファン宛になっている。そして、差出人の名前を見て、ステファンは黙り込んだ。


「中身を確認して、後で報告してくれ」


 それだけ言うと、ステファンは、ちらりと美代を見た。


「美代さん、後でちゃんと話しましょう。だから、泣かないで……」


 どこかせつなさを漂わせながら、ステファンは胸ポケットからハンカチを取り出し、美代へ渡した。


「少し、休む」


 口重にカールとアリエルへ言うと、ステファンは足早に台所から出て行った。


 カールとアリエルは、ステファンの後を追うわけでもなく、静かに頭を垂れた。


「カール……」


「ああ、アリエル。分かっている。確かめて見なければ。しかし、カサンドラ嬢からだぞ。おおよそ見当はつくだろう?」


「だからこそ、早く確認したほうが……。速達ですわよ?」


「そうだな。急ぐならば、電報を使えば良いところに……速達だ」


 ええ、とアリエルがカールへ相づちを打っている。


 急かされたカールは封を切った。


 同封されている手紙を取り出し目を通す。アリエルも、かなり気になるのか、そっと覗きこんでいる。


「……これは!アリエル!!」


「ええ!!カール!!」


 手紙に書かれている事を見た二人は、異常に取り乱した。


 沈着冷静を素で実践できているカールとアリエルの、この慌てぶりは、隅に座りステファンのハンカチで涙を拭いていた美代を十分に驚かせる。


 堂々と、嫌みを越えた理屈を通そうとする二人でも、こんなにも動揺するのかと、美代はうっかり、見つめてしまっていた。



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