台所までは、まさにスープが冷めない距離。いや、ほんの数歩と言って良いぐらいしか離れていない。
ドアを開け、小屋から出たら、前には、ステファンの屋敷の裏口とも言える台所へ通じるドアがあった。
そこから台所へ潜り込み、シロに何かしら与える予定だったのだが……。
美代は、今、キラキラと瞳を輝かせている。
そこには家政の教科書で学んだ最新型の機材が並んでいたからだ。
オーブン付きの
美代が設備に見入っている側では、ステファンは戸棚を漁っていた。
「確か……この辺りにバゲットがあるはずなんだけど……」
あったと小さく歓喜の声をあげたステファンは、続けて氷温庫の扉を開けた。ひんやりとした空気が流れ、美代は、なんだか、ドキドキした。
ステファンは、何食わぬ顔で大きなビンを取り出し、作業台へ置いた。
その間、シロを手放すことはなく、しっかり抱えていた。
シロは、それが窮屈だとばかりに暴れ始める。
「あっ!こら!シロ!」
ステファンの注意も効果はないようで、シロは、無理矢理床へ飛び降りると、美代の足元へ駆け寄った。
「美代さん!シロを!逃げないよう捕まえて!」
言いながら、ステファンは、手近にある器を取って、ビンから液体──、ミルクを注いだ。
続いて、戸棚から取り出していたバゲットを小さくちぎり、容器のミルクに浸している。
「さあ、シロ。お食べ。このバゲットを手に入れるために行列ができるぐらいたからね。美味しいぞ!」
言いながら、ステファンもちぎったバゲットを、頬張っている。
「あっ、美代さん。食事がまだでしたね」
ステファンは、美代の視線に気が付いたのか、バゲットを半分にちぎると差し出してくれた。
たちまち美代は、うつむいた。実は、かなり空腹だったのだ。シロへ準備しているステファンの姿に、小さくではあるが、腹の虫が鳴ってしまった。どうやらステファンには聞こえていなかったようで、ほっとした。
先程までは、一線を越えた密着度に思いを馳せて羞恥に襲われていた美代だったが、今はまさに、色気より食い気の状態に陥っている。
「さあ、どうぞ」
にこやかにステファンが薦めてくれるのは、ただのパン。言うべき事ではないのだが、これっぽっちのものを……。
「あのぉ……ステファン様。これは、パンですよね?」
台所の窓から差し込めている日の光具合から昼食の時間が近いと思われるが、まさか、昼食はパン一切れなのか。
というよりも、美代は気が付いた。台所に人がいないのだ。普通なら、
そしてステファンは、部屋の片隅から丸椅子を二脚運んで、美代に勧めると、椅子に座り、バゲットを頬張っている。
「あ、あの?!ステファン様?!昼食は、これだけなのですか?」
「あっ!すみません!ミルクもありますよ!」
当然のようにステファンは言う。
(いや、それじゃ、シロと同じじゃない?!)
「ステファン様!もう少し、食事らしくしましょう!というよりもこのお屋敷では、お昼は摂らないのですか?なぜ、
「あっ、それが、辞めてしまって……」
「え?!辞めた?!じゃあ、その間、お食事はどうしていたのですか?!」
「あー、一応、メイドがいたので、彼女が作っていたのですけれど、カールが不味いと一言……。こちらも、辞めてしまった訳でして」
「も、もしかして、私が着ているこのお仕着せが……」
「ええ、辞めたメイドのものです。申し訳ありません、あくまでも仮。美代さんのお着物が汚れてはいけないと用意させてもらったものなのです……」
美代は、面食らっていた。伯爵と名がつく家でありながら、使用人が辞めてしまったなら、どうして人員補充をしないのだろう。
美代の家も訳ありではあるが、ステファンの屋敷はそれを上回っていないか?
とにかく呆れて言葉が続かない美代だった。煌が、自分へ呆れ、口煩く言うのも分かるような気がしてきた。
と、いうよりも!そう!煌だ!
美代は足元のシロを見る。
シロは、余裕でステファンが置いた容器のミルクとバゲットをペロペロムシャムシャやっている。
(……そうだわ。ひとまず、腹ごしらえということね。それほど長い話なのかしら?だから、シロは、空腹を満たしているんだわ!ということは……)
「ステファン様!お昼です!」
美代のいきなりの叫びに、ステファンは手を止めた。
「あっ!申し訳ありません。これでは少なかったですね……」
「い、いえ、そうではなく。でも、確かにパンの欠片では、さみしい昼食です!そこで!」
美代は台所と少しばかり食材を融通できないかとステファンへ懇願した。
ここは、シロのことを含めて怪しまれないよう、共に食事を摂るべきだ。そして、ステファンの胃袋を掴み、こちらを信用させるべきだと美代は思う。
人間、誰しも腹を満たせば気が緩むもの。シロと話をするためにも、ステファンを引き離さなければならない。具体的には、何をどうするなど思いついていないが、食事を摂ればなんとかなるような気がした。
話しぶりからも、ステファンはちゃんとした料理を食べていないようだ。パンをかじって満足している具合なのだ。多少手を加え、そう、サンドウィッチ辺りを作れば、ステファンは、こちらの言いなりになるのではなかろうか。
なんとも緩い作戦を立てた美代は、ステファンへ必要になる食材を言った。
「ん?料理をですか?ああ、レタスは、確かありましたね。誰が買ってきたのだろう?」
心もとない返事をしながら、ステファンは、台所を再び漁り始めた。