そして、一行は、なんとか坂を上がりきり、ミレーネ伯爵邸の玄関前にいる。
「じゃあ、呼び鈴を鳴らしますよ」
店主は言うと、梶井屋主人として役目を果たそうとキリリと顔を引き締めた。
玄関の軒から下がっている紐を引っ張ると、カランカランと乾いた鐘の音がして、ドアの向こうから、男の声がした。
「……執事のカールさんだな。ミレーネ伯爵家の執事長だからね。気難しい。いや、仕事に忠実な方だ。くれぐれも失礼のないように、親方もこう助も頼みますよ」
梶井屋の名前に傷がつくと言いたげに、店主は、これから応対に出てくるであろうミレーネ伯爵家の執事長とやらへ、礼を尽くすよう釘を指してきた。
すっとドアが開き、姿勢を正した男が出て来る。
白銀色の髪を几帳面にとかしつけ、片眼鏡をつけた梶井屋店とそう変わらない年頃の異国人が、息が詰まらないのか気になるほど、お仕着せのスーツをキチリと着込み、とてつもなくすました顔で、一行を迎えてくれた。
「これは、これは、カール様。柳井町の梶井屋でございます。本日はお声がけありがとうごさいます。……で、いかような御用向きでしょうか?」
「……私共は、お呼びしておりませんが?」
カールとやら、執事長は、顔色一つ変えることなく、窪んだ目を細め、梶井屋に即答した。
そっと、ヤハチ親方が、梶井屋店主の袂を引っ張り、左右にゆっくり揺らす。
「……屋根が気になる。雨漏りがしてはいけない……そうではないか?」
低い声で店主へ囁き、続けてこう助も、
「……さあ、言うのだ。梶井屋の為だ……」
ゆっくり囁く。
それを受けた店主は、瞬間、ぽかんと固まるが、勢い、そうだ!と叫んだ。
「カール様!これは、手前からの、さーびすとやら言うものでございます。雨の季節が来る前に、屋根の確認をしておくべきかと……」
カールは、何事かと目を見開くとすぐに冷淡な顔つきに戻り、ボソリと言葉を発する。
「……分かりました。雨漏りは、困ります。確認をお願いします」
少したどたどしい言葉使いで、梶井屋の提案を受け入れると、玄関ドアを開いた。
梶井屋店主の後ろで、こう助とヤハチ親方は、ニタリと笑っていた。追い返されるかと思ったが、どうにか、ステファンの屋敷に潜り込むことができそうだ。
ひとまずは、店主とカールの話しに合わせ、それから、どう美代を連れ戻すか考えるべきだろうと二人が思っていると……。
「いやぁ、美代さん、新聞紙とはすごいですね!」
「ええ?!そんなことはありませんよ!それよりもステファン様に、窓拭きをお手伝い頂くなんて!」
「いやいや、当家は人不足ですからね。私も動かなくては」
上着を脱ぎ、ワイシャツを腕捲りしたステファンが、バケツを持って現れた。その横には、新聞紙を持つ美代の姿が……。
玄関脇の廊下から、朗らかに笑いながら出てきた二人に仰天している者がいる。
「旦那様!窓拭きなど!」
カールが、あるまじきことと主、ステファンへ注意する。
そして、その様子を見て、こう助とヤハチ親方も目を丸くしていた。
確かに、二人は、四郎から報告を受けていた。美代が女中になって窓拭きをしていると……。
しかし、聞くのと見るのは大違いというやつで、こう助とヤハチ親方、つまり、煌と八代にはこの事実は衝撃的すぎて、到底受け入れられないものだった。
現れた美代は、紺色のワンピース姿に白いエプロンを着けた、完全なる
煌は思う。
(美代!お前は何をやっているのだ!しかも、異国人ステファンと、どうして、そこまで和やかに笑い合っている!)
その傍らで八代が思う。
(美代様!そのお姿は一体!傷んだブーツはどうなりました?!八代は、新しい草履をちゃんと持参しておりますのに!)
隠密という立場を忘れかけ、仰天のあまり固まっている二人に、
「そんなに緊張しなくていいんですよ。親方、カール様から、御屋敷の具合をお聞きしましょう」
梶井屋店主が、優しく声をかけてくれた。