目次
ブックマーク
応援する
1
コメント
シェア
通報
第36話

「はい、こちらです。憲兵様!」


 差し出された通行証と同行票に、うむ、と、威厳をみせながら憲兵は受けとる。


 暫くの間、憲兵は、それらを眺めていたが、


「梶井屋とやら、行き先はどこだ」


 と、高圧的に質問してきた。


「はい。ミレーネ伯爵様のお屋敷へ……。ヲの5の区分です」


「ヲか……それは、随分辺鄙な場所だな。うむ。徒歩では難儀な場所だ。本来なら人力車が欲しいところだが……それは、許されていないからなぁ。確かに馬が必要だろう」


 憲兵は、妙に柔らかな物腰になった。


「左様で……。こちらも、ヲの区域までは、さすがに徒歩では…」


 店主も、和やかに答えている。


「ああ、居留地はだねぇ……」


 話に着いていけないと、立ち尽くしているヤハチ親方とこう助の為に、店主は、居留地の仕組みである、区分について説明してくれる。


 内部は「いろは」順に土地が区分けされており、それは「い」から始まる。つまり、最後の文字とも言える「を」の場所となると、入口から遥か遠く、居留地の敷地の隅にあたり、とても徒歩では行きつけない場所で、憲兵が言うように、なんらかの乗り物が必須になるほど距離があるらしい。


 では、人力車や、はたまた、馬車で乗り込めば良いかというと、人の立ち入りには厳しい制限がある。人力車には車夫が必要、馬車も御者が必要。そこが制限にひっかかる。


 つまり、操作する人間が必要な乗り物は、外部からの乗入れが厳しく制限されているのだ。提示人数以外のなんらかが潜り込み、居留地に紛れ込む恐れがあるからだった。


「へぇ、色々な取り決めがあるもんで」


 ヤハチ親方が驚く横で、こう助も、なるほどと頷いている。


「うむ。あとは……馬一頭……」


 憲兵は、ちらりと黒馬に目をやり、自身が持つ控えに、これから立ち入る者達を記入していた。


 そして役目は終わったと、ややぞんざいに、憲兵は、通行証と同行票を付きだして来た。


「帰りは、もう一度、この通行証と同行票を提示しなければならない。それで、入った者と出た者の頭数を確認するんだ。こう助、くれぐれも、通行証と同行票を失くしちゃいけないよ」


 こう助は、憲兵から通行証と同行票を受けとり、梶井屋店主は、それを見ながら、帰りがまだあるのだからと注意した。


「はい、旦那様!」


 受け取った物を懐にしまいながら、こう助は返事をする。


「じゃあ、行きやしょうか」


 親方の一声で、一行は居留地に足を踏み入れた。


 そして──。目に飛び込んで来た光景は、別世界だった。


「うわぁーー!パン屋がある!」


 こう助が興奮ぎみに叫ぶ。


「ありゃ?!あっちには、ドレスを着たお姉さん達が、むらがってますぜ?おぉ?小間物屋か?!」


 親方も、珍しそうにキョロキョロしている。


「ははは、ここは、もう日ノ本の国ではないからねぇ。まさに、異国だ」


 四郎から伝え聞いた道順を、煌と八代は、こう助とヤハチ親方として確認しているだけだった。しかし、梶井屋店主には、二人がもの珍しさから、はしゃいでいると見えているようで、ついでだからと得意になって、敷地内について語り始めた。


 居留地の敷地は、おおよそ碁盤の目のように区画分けされ、南北に「いろは」順、東西に一から五の数字が当てられている。つまり番地のようなものだ。


「……つまり、ヲの5番にあるミレーネ伯爵邸は、敷地の端の端ということになるんだよ。まあ、辺境というか、辺鄙な場所というか……辺りには、誰も住んでいない……」


「い、いや、旦那!仮にも伯爵でしょう?なんつーか、もっと、華やかな場所で暮らすもんじゃないんですかぃ?!」


 ヤハチ親方が慌てた素振りで口を挟む。こう助は黙って、梶井屋店主の返事を待っている。


 店主は、顔を曇らせ、ここだけの話だけれど、とこっそり言った。


「……ミレーネ伯爵様は、振興貴族でね、まあ、そういうのは、どこの国にも存在する。日ノ本の国にも、いるからね。だが、確かに広い敷地ではあるけれど、辺りを塀で囲まれ閉じ込められているに等しい環境だと、派閥のようなものも出来やすい。ミレーネ家は、何代か前の当主が、金で爵位を買った家柄なのだよ。だから、歴史のない家だと爪弾きに合っていて、古株の貴族、つまり、居留地内の元締めに、辺鄙な土地をあてがわれたんだ」


「……なるほど。旦那。そりゃあ、なかなかの話ですなぁ……」


 何処にでも、それなりのことはあるもんだと、ヤハチ親方は頷いた。同時に、こう助は店主に見られない様、うつむき、苦虫を噛み潰したような顔をする。


 重い空気が流れているのに、店主は気が付いたようで、急に明く振る舞いなから、笑顔で言い放った。


「いやいや、振興貴族であろうとも、歴史の浅い家柄だろうとも、ミレーネ伯爵様は、お持ちになっている資産が、この居留地ではピカ一なんだ。だから、仕事もよく頂けるし、支払いも遅れることはない。うちとしては、良い御客様なんだよ」


 はははと、店主は、から笑っているが、こう助とヤハチ親方の表情は厳しい。二人はこっそり顔を見合せ頷き合っていた。


 ステファンという男は、結局、成金で、爵位も金で買った家柄だけに、何事も金次第という、ろくでもない男なのだろう。


 きっと、未来の正妃の写真を撮って、国元へ送り金にするつもりなのだろう。


 いや!!つまり、これは、誘拐だ!!かどわかしだ!!


 ステファンは、美代の写真を、三門家並びに宮中へ送りつけ、身代金を要求するつもりなのだ。


 大事な人質に、逃げられては困ると、ステファンは、美代に女中だなんだと言い含め、屋敷に滞在するよう納得させている……。


 こう助とヤハチ親方は、素早く目配せし、互いに頷き合った。


 二人とも、思いは一致したようで、共に鬼の形相を浮かべていた。

コメント(0)
この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?